安達太良山の遠望、中央の突起が山頂の乳頭山 | 安達太良山(乳首山)を振り返る |
沼の平、噴火口跡 | 5月24日、登山道にまだ残雪が残っている |
くろがね小屋、温泉の亜硫酸ガスが臭っていた |
コースタイム
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智恵子の略歴 明治19年 福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家の長女として生まれる 明治36年(18歳)日本女子大学家政科に入学、寮生活を続けているうちに洋画に興味を持ち始める 明治40年(22歳)女子大学卒業後、東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して絵画を学ぶ 平塚雷鳥の婦人運動に加わり、雑誌『青鞜』の創刊号の表紙絵を描く 明治45年(27歳)高村光太郎と知り合う 大正 3年(29歳)高村光太郎と結婚、駒込のアトリエで光太郎は彫刻、智恵子は油絵に熱中した 昭和 4年(44歳)弟啓助に経営がまかされていた生家長沼酒造店が破産、一家は離散してしまった 病みがちな智恵子は、当時ふるさとの阿多多羅山の空の下で静養すれば健康を回復し、また東京へ戻る生活でした 昭和 6年(46歳)精神分裂の兆候が現われだし、症状は悪化していった 昭和 7年(47歳)アダリン自殺を計る 昭和10年(50歳)精神分裂症で、南品川ゼームス坂病院に入院 昭和13年(53歳)肺結核で死亡、智恵子は大好きなレモンを光太郎からもらうと、一口かじり、かすかな笑みをこぼしながら息を引き取った |
樹下の二人
みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。 かうやつて言葉すくなに座つてゐると、 うつとねむるやうな頭の中に、 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。 この大きな冬のはじめの野山の中に、 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。 無限の境に烟るものこそ、 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、 むしろ魔もののやうに捉へがたい 妙に変幻するものですね。 あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。 ここはあなたの生まれたふるさと、 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵。 それでは足をのびのびと投げ出して、 このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。 私は又あした遠く去る、 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。 ここはあなたの生れたふるさと、 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。 まだ松風が吹いてゐます、 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。 あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。 大正一二・三 |
あどけない話
智恵子は東京に空が無いといふ、 ほんとの空が見たいといふ。 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間に在るのは、 切つても切れない むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりとけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。 智恵子は遠くを見ながら言ふ。 阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。 昭和三・五 |