どんぐり裁判
問二十五 「いい加減に仲直りしたらどうだ」と山猫は何故心配そうに、それでも威張って言ったのか。
山猫は権力者・ボスではあるが、権力欲満々で自分から他を押しのけて権力者になった感じではない。偉そうに見えるのでどんぐりたちなどから頼りにされ、断れずに能力もないのに引き受けたような面がある。「少し心配そうに」などというところに、人(猫)のよさが出ている。本当はどんぐりたちが仲が悪いのは親のような心境で心配なのだが、弱く言ったのでは威厳がないから無理に威張っている。そういうことをしているうちに偉そうな態度をとるのが癖になったのかも。
問二十六 私たちから見ればくだらないようなことを何故裁判に取り上げたのか。
問二十七 どんぐりの裁判の時に、山猫とどんぐりは同じような会話を三回も繰り返している。それは何故か。
問二十八 なぜどんぐりがしーんとして固まり、裁判終了なのか。
問二十九 一郎が出した結論は、どういう説教から来ているのか。
これはこの話の主題にかかわる大切な問題だろう。「お説教」と一郎が言うのは、お寺で、坊さんが地域の信者を集めてする法話だろう。従ってその内容は仏教の教えに関するものである。「一番威張らないものが一番えらい」とか、「一番偉いと思っているものが、一番だめである」とかいう考えは、仏教ではよく言われることである。ある生徒の言葉で言えば「発想の転換」、正確に言えば「価値の転倒」、「逆説」である。「善人なおもて往生す、況んや悪人をや」(親鸞)、「最低の人にも最上の智恵があり、最上の人にも智恵の盲点がある」(慧能)などの例がある。賢治自身も、「みんなにでくの坊と言われ、誉められもせず、苦にもされず、…そういうものに、私はなりたい」(『雨にも負けず』)と言っている。さて、山猫はこの仏教の思想を本当に理解したか。たぶんできなかっただろう。だって、「猫の耳に念仏」というではないか。
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