「どんぐりと山猫」問題点の解答 2002.07.04 山戸朋盟


山猫

問八 「山ねこ拝」と書いてありながら、別当が山猫に代わってはがきを書く必要がなぜあったか。

 山ねこは陣羽織を着、別当付の馬車に乗ったり巻き煙草を吸ってやたらに偉そうにしているが、動物なので、文字が書けない。いろいろな所に首を突っ込んでいるので、猫の手、いや、「人間の手も借りたい」くらい忙しかったにしても、自分では字がかけなかっただろう。

問九 何故山猫が裁判をするのか。何故山猫が判事でとても偉いのか。他にいないのか。

 もともと猫は肉食なので、森の中では強い存在。この近辺の里山(人里近くの山や森)では食物連鎖の頂点に位置する。そこで山猫が森の生き物の中心になっても誰も文句が言えない。社会は、ともかく誰か中心になってくれる人がいないと、物事が収まらない。総理大臣・市長・町長・村長・町内会長・PTA会長・級長・社長・課長・部長・校長・園長・事務長 …。理想的でなくても無能でも、それらしい人が取りあえずボスに選ばれる訳だ。

問十 山猫は場所を指定しないのに、一郎は裁判の場所がなぜわかったのか。

 山猫は山にいるから山猫なのだ。小学生の一郎にとって「山」といえば、いままで数回行ったことのある、谷川の上流の、あの「山」以外にないだろう。「面倒な裁判」とは、どんぐりの裁判のことだから、どんぐりを拾うのによい場所は、谷川の上流の森だということは、一郎は初めから知っているのだろう。その辺で、一度か二度、一郎は山猫を見かけたことがあるのかも知れない。

問十一 何故栗の木、滝、きのこ、りすはそれぞれ別の方角に山猫が行ったと言うのか。

 山の動植物や滝などが、口から出任せに山猫のことを証言したとする説があるが、そのようにメルヘンチックに読む根拠はない。これらの登場者は、西洋の童話の「妖精」でもなければ「小人」でもない。真面目な山の住人たちである。これらが、通りすがりの人の質問に、わざと出鱈目を答える理由がない。ただ、こういう場合、答える側は多少無責任に、質問する側は多少聞き流すようになることはある。

「A先生はどこにいらっしょいますか。」
「さあ、ついさっきまでこの部屋にいらっしゃったから、そこらへんにいるんじゃない?」
「はあ、…ではちょっと探してみます。」

 これは、嘘や出鱈目を言っているわけではない。

 動植物や滝は、全員、「山猫なら、…、馬車で〜のほうへ飛んで行きましたよ」と証言している。つまり、複数の証言が、「馬車で飛んでいった」という点では一致している。これは、これらの目撃証言が出鱈目でない証拠であろう。もし出鱈目なら、「馬車で」とか「自転車で」とか「箒に乗って」とか、そういう点で食い違いが出るはずだ。そして、実際に一郎が出会ったときも、山猫は馬車に乗っていた。

 山猫を見た時刻が、「けさはやく」「さっき」「けさまだ暗いうちに」というように、ずれている点に注目すべきだろう。二人が「けさはやく」と言っているが、言葉は同じでも、同じ時刻を指しているとは言えない。「けさまだ暗いうちに」は、例えば4時ごろ、「さっき」は、7時とか8時頃。つまり四つの証言は、時刻がずれているのだ。猫は朝早くから自分の縄張りをパトロールする動物である。山ねこはこのあたりではなかなか偉いボスのようなので、どんぐりの裁判以外にもたくさん仕事があったのだろう。だから朝早くから山の中を東奔西走しているのだ。ただし、うまく問題を解決しているかどうかは別問題。偉そうにはしているが実は無能で、問題をうまく解決できないからこそ忙しいということだってあるかもしれない。人間でもそういう人はいるではないか。

問十二 なぜ山猫はそんなに気取った口調で言うのか。たばこを吸うとき、何故わざと顔をしかめるのか。

問十三 陣羽織に意味はあるのか。

問十四 なぜ作者はどんぐりと山猫のやりとりを三度も繰り返したのか。

 山猫は、「黄いろな陣羽織のようなものを着て」いる。「陣羽織」は、大将・地主・権力者などを連想させる。また、初めに登場した時から、

「ひげをぴんとひっぱって、腹をつき出して」、
「ふところから、巻煙草の箱を出して」、
「マッチをしゅっと擦つて、わざと顔をしかめて、青いけむりをふうと吐き」

などと、気取った、偉そうな態度をとっている。裁判の場面でも、そういう描写は随所に繰り返されている。

「もういつか、黒い長い繻子(しゅす)の服を着て、勿体らしく、」
「ぴんとひげをひねつて」
「いかにも気取つて、繻子のきものゝ胸を開いて、黄いろの陣羽織をちよつと出して」

などがそれである。「黒い繻子の服」は、裁判長の服装だろう。「繻子」は、最高級の絹織物。「猫にも衣装」ということわざがあるとおりだ。いや、「孫にも衣装」だったかな?? 「孫」か「馬子」か、多少まごつくが。

 こういう描写を、「作者は山猫が裁判する情景を、ほほえましく、楽しく、メルヘンチックに描いた」などと解説する学者がいるが、私には、賢治文学の本質を見誤った、たわごととしか思えない。

 この外見だけは裁判官の山猫が、肝心の裁判の内容に関しては、

「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いゝ加減に仲なおりしたらどうだ。」と、
「やかましい。こゝをなんと心得る。しずまれしずまれ。」

という、およそ裁判の審理とは言えない、無内容きわまる二つのセリフを繰り返しているだけである。これらの描写は、山猫がいかに裁判官として無能だったかを強調するために描かれたと解釈するのが当然だろう。しかも山猫は、三日間この調子でやっていたのだ。この裁判の情景を「自然を賛美する楽しい儀式」などと解釈する学者がいるが、まったく間違っている。考えても見るがいい。決まりきったことを言い合う儀式なら、五分もやれば十分だ。三日間もやっていたということは、この裁判が、本物の「争い」だということを示している。人間にとって一番飽きずに続けられる行為、それは「争い」なのだ。

 不毛な「どんぐりの背比べ」を繰り返すどんぐりもどんぐりなら、形式的にはその上に立ちながら、どんぐりたちと同じレベルでしか争いに関われず、どんぐりの内面を高所から裁定して争いを収めることもできない山猫も山猫なのだ。賢治から見ると、どんぐりは民衆で、山猫は社会の支配者であろう。民衆は身勝手な自己愛と自己主張を永遠に繰り返し、支配者は民衆の争いを収める智慧を持たない。ここに明らかに賢治の痛烈な社会批判、いや、厳しい宗教者の立場からの『俗世批判』・『俗世否定』を読み取ることができる。

 にもかかわらず、賢治の描写は罵倒や非難の口調ではなく、穏やかでどこかに対象への愛情を感じさせる。これはおそらく、賢治が宗教者だからであろう。しかし逆に言えば、人当たりは柔らかいが、実は内面はものすごく他人に厳しい。「外面如菩薩、内面如夜叉」。賢治はやはり宗教者なのである。

問十五 何故山ねこは一郎に黄金のどんぐりと塩鮭のあたまとどっちが好きかと質問したのか。

問十六 お礼の品が鮭の頭じゃなくて何故よかったのか。

 山猫が「塩鮭のあたま」をお礼の選択肢に加えたのは、一郎をバカにしたからだと感じる生徒もいるが、とんでもない誤解である。「塩鮭のあたま」は、山猫にとって、今の自分の財産(持っているもの)の中で最も大切なものである。動物にとって食物(餌)がこの世で最も大切なものだということは、犬や猫を飼っている人なら誰でも知っている。ましてペットではなく、野生動物である山猫にとって、「塩鮭のあたま」は、文字通り、命をつなぐ命綱、宝物以上のものである。山猫がそれを一郎に差し出したのは、一郎に対する最大限の感謝と誠意を示すためである。もちろん、この猫のことだから、格好を付けたいという考えもあっただろう。「塩鮭」が山の中や谷川にあるはずがないから、どこかの家の台所かゴミ捨て場から「猫ばば」してきたのだろう。また、それ以外には価値のあるものは持っていなかったのだろう。持っていたら、別の方を出したはずだ。どちらでもあげますと言うことは言ったが、内心では、一郎が塩鮭を選ばなかったことにほっとした。一方、黄金のどんぐりなど、山猫には何の価値もない。「猫に小判」のようなものだ。読者にしてみれば、一郎が塩鮭のあたまを選ぶはずがないが、山猫にしてみれば、内心、薄氷を踏むような、冷や汗物の心境だろう。これが読者の笑いを誘う。そういう効果を狙った、作者のサービスである。はがきの「とびどぐ」(飛び道具)、「めっきのどんぐり」などの記述も同じ。

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