エッセイ・四角い箱から
 
第9回 『春夏秋冬』         
 


 キーンとした冷たい空気と晴れた空、それが元旦のイメージである。町はシンとしていて、人々はそれぞれの家庭でお雑煮を食べた。少なくとも、私が子供の頃は。しかし、今は違う。地球は温暖化が叫ばれ、都市は24時間眠ることなく、人は元日から街へ繰り出す。

 環境のせいなのか、感受性が鈍くなっているのか、私の中から季節感がどんどん無くなっている。以前は新しい年を迎えるというだけで、心が改まった。それが今は、ただの夜中とただの朝。初日の出を見はしたけれど、新年に対する感慨はない。

 この年末年始を過ごした南房総では、去年の秋の暖かさのせいで紅葉が遅れ、1月の今頃色づいている。その一方花畑には、毎年のことだけれどポピーや菜の花が咲き乱れ、海ではサーファーが波に乗っている。いったい季節がいつなのかわからないような光景。栽培農家の人の話を聞くと、百合などは早く咲きすぎていつもの出荷の時期にはもう終わっていたという。自然のサイクルが、狂い始めているのだ。

 もちろん、南房総は暖かさが売り物なのだから、真冬に花が咲いているのは心も暖かくなるようで良いのだが、日本中がそんな風になってしまっては淋しい。少なくとも私は、四季の移ろいの中で時間の流れを感じ、美しい季節の風物に楽しみを見つけてきた。特に漫画家という、曜日も年度も関係のない仕事に就いてからは。

 だから、夏は暑い方がいい。冬は寒い方がいい。秋の冷え込みがなければ、紅葉は深く染まらないし、ぐずぐずと暖かい冬では、桜咲く春の感動も半減する。常夏の国も、極寒の国もあるけれど、ここは日本で、はっきりとした春夏秋冬があるのだから。

 そして、その失われかけている四季を取り戻すためには何をしなければいけないか、考えるときが来ているのだろう。地球の温暖化がその原因のひとつであるなら、それを招いているのは私達人間だ。子供のいない身では、次の世代のためと言われてもピンとこない。地球を守ろうと叫んでも、漠然としすぎている。けれど、燃えるような紅葉や、泣きたくなるほどの春の喜びのためなら、動き出せそうな気がする。

 

 
99年1月10日UP

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