事跡:
天慶6(943)年ごろ、出生
安和2(969)年8月ごろ、六位蔵人に任官か
天禄3(972)年10月22日、済時のもとに伊尹の辞表を持参する(『済時記』)
伊尹家の家司をしていた?
天元3(980)年11月3日、陸奥守として記録に見える
永観2(984)年、慈恵大僧正に黄金を献ず。
寛和元(985)年4月24日、陸奥守として駒引きに際し貢馬。
寛和2(986)年、この年没(兄の藤原為頼の家集『為頼集』に、為長が陸奥守として赴任中、没したという詞書がある)?
勅撰歌人としては『後拾遺集』に1首残るのみ。
『小大君集』にも為長の詠歌が2首見られ(うち1首は『後拾遺集』の歌)、小大君とも知己であったと思われる。
ここに着目!
| 紫式部との交渉は? |
藤原為長という名は知らなくとも、紫式部の伯父ならばきっと優秀な人だったのだろう、などと勝手な想像をしてしまう。が、経歴を見る限り、受領階級の家柄の出身者として、ごく平凡な人生を生きた人のようである。特に出世したわけでもない。勅撰集に採られた和歌も1首のみと少なく、高名な歌人でもない。
逸話は一つある。『日本高僧伝要文抄』第二「慈恵大僧正伝」に、比叡山の西塔の宝幢院を建立しようとしていた慈恵が32両の資金不足に悩んでいたところ、陸奥にいる為長から文が届いた話が記されている。文には「国分寺に入った賊が金泥の大般若経を盗んで焼き、金を取っていたところ、自分が居合わせて賊を捕らえた。黄金30両だが経文から取った金だから寺へ寄付する」とあったという。慈恵はその金で無事塔婆を建てることができた、という。武人肌の人だったのかもしれない。為時にも通じるある種の実直さも表れていて、おもしろい話ではある。
ただ、気になるのは紫式部との関係であろう。
式部のもう一人の伯父、為頼は家集が残っているので、足跡もある程度までわかる。紫式部が越前に下る際、どうやら為頼は餞別に和歌を贈ったらしく、その親しさのほどがしのばれる。
ところが、為長にはそうした事実は確認できない。残念ながら、家集にも日記にも為長の名は出てこない。そもそも、伯父為頼が伝領したとされる堤中納言邸(現廬山寺)で、紫式部が出生、幼少期を過ごしたかどうか、それが一つのポイントだろう。祖父為信の項でも触れたが、当時の結婚形態からみて、父親と同居していない母親(つまり結婚後も実家にいる)が亡くなった場合、母方の祖父母がそのまま子どもの面倒をみることが多い。とすると、式部と惟規、姉の3人も、為信の家にいたとするほうが自然かもしれない。ただ、父親が引き取るケースもあり、式部たちの場合、永延元(987)年に為信が出家した後は堤邸に移ったことも考えられる。もっとも、そのときすでに為長は亡くなっているが、為長の息子たちは同居していたかもしれない。従兄弟たちの言動は、『源氏物語』に登場する若者たちの中に少なからず投影されていると思われる。為長自身は式部とはほとんど交渉はなかったが、従兄弟たちとの交流の中で、式部はあまり話す機会のなかった叔父の思い出を聞かされたことだろう。
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為長の息子「さねつね」 |
『後拾遺集』に採られた和歌は、『小大君集』にも見られる。
右大将済時住吉にまうで侍りけるともにてよみ侍りける
松みればたちつきものを住の江のいかなる浪かしづ心なき(『後拾遺集』雑四、1065)
この歌の詞書は、諸本では
「住吉に故大将殿のまうて給ひけるにゆふひの入ほとに空いと心ほそうて松のしたに浪のよするをみちのくのかみためなか(『小大君集』群書類従本)」
「すみよしに故大将殿のまうで給ひけるに、ゆふ日のいる程に、そらいと心ぼそうて、まつのしたになみのよするに、歌よませ給ひけるに、みちのくにのかみ(『小大君集』国歌大観本)」
「すみよしに故右大将どののまうで給けるに、ゆふひのいるほどにそらいとこゝろぼそうて、松のしたになみのよするに、うたよませたまひければ、内蔵頭なりしためなか(『小大君集』西本願寺本)」
と本文に異同があるが、かえっていろいろな情報が盛り込まれることになり好都合である。まず、為長が済時に仕えていたことがわかる。為長が内蔵頭であったらしいことも知られる。
また、『拾遺抄』別、225および『小大君集』49にある歌も為長の詠歌である。
ためなが、陸奥守にてくだるに、三条大臣餞給ふに
たけくまの松を見つつやなぐさめん君が千歳のかげにならひて
この歌の詞書は、西本願寺本では「ためなが」の部分が「ためながはさねつねのちちよそれに」となっている。問題はこの「さねつね」である。『尊卑分脈』を見ても、「さねつね」なる人物は為長の男子の中には見当たらない。かといって、まったくの間違いとは言えない。為長の男子はみな下に「経」の字が付いて「○経」という名であるから、「さねつね」という名があってもおかしくはない。そうすると為長には『尊卑分脈』に載る4人の男子以外に、「さねつね」なる男子があったことになる。
だが、わざわざ「為長はさねつねの父よ」と注釈めいた言葉を付けるなら、「さねつね」はある程度世間に知られた人物であるはずで、それが『尊卑分脈』から漏れてしまうのは解せない。
「さねつね」は『尊卑分脈』に載る4人のうちの、誰かのことを言っているのではないか。「さね」と読める漢字なのは、信経ひとりのようである。また、信経は兄弟の誰よりも出世(と言っても、せいぜい大国の国司を歴任したという程度)して、世間での知名度は最も高そうである。だが、この人は『枕草子』でも、『小大君集』の他の箇所でも「のぶつね」と記されているので、さねつねというのは不審と言わざるを得ない。ただし、信経は後に内蔵権頭に任ぜられており、上記の為長が内蔵頭であったという記述が信経の任官と混同しているとすれば(つまり為長は内蔵頭ではなかった)、やはり「さねつね」は信経とするべきだろう。
信経についても問題はあるが、「藤原信経」の項で述べておいたので参照されたい。
参考文献:
小大君集評釈
為頼集
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