藤原伊祐

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事跡:
 天徳4(960)年ごろ、出生
 永延2(988)年8月19日、東宮相撲事にて六位蔵人として主殿助伊祐見任
 正暦元(990)年ごろ、佐伯公行女と結婚し長男頼祐を儲ける
 正暦5(994)年ごろ、具平親王の子を養子とする
 長徳4(998)年10月4日、信濃守前司 <正暦4(993)年ごろ補任?>
 寛弘2(1005)年2月25日、阿波守として見任<この年補任?> 
 寛弘6(1009)年、帰京?
 寛弘8(1011)年、長男頼祐が六位蔵人に、養子頼成が蔵人所雑色に任ぜられる
 長和3(1014)年1月25日、讃岐守として見任<この年任終?>
極官:従四位下 

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養子頼成は具平親王の子

 寛弘8(1011)年正月、伊祐の子、頼成が蔵人所雑色に任ぜられ昇殿を許されたという記事が、『権記』にみえる。そして頼成の説明として、「実中書王落胤」と記されている。
 中書王とは、当時風流人として高名であった具平親王のこと。村上天皇の第七皇子である具平親王は為平親王の女を妻に迎えて隆姫や源師房を儲けているが、為平親王の女と結婚するかなり前、若いころに身分低い女に子を生ませているらしい。その事情を詳しく伝えるのが、『古今著聞集』である。
 「後中書王、雑仕を最愛せさせ給て」で始まる第456話は、具平親王が邸にいた雑仕を寵愛し、子までなしたことを語る。ある夜、親王は雑仕を遍照寺へ連れ出すが、雑仕は物の怪に襲われて殺されてしまう。悲しんだ親王は、牛車の物見に雑仕と子どもと一緒にいるところを描き、眺めていたという。
 問題は雑仕が生んだ子どもである。『古今著聞集』は源師房のことだとするが、誤りである。おそらくあまりに身分低い女の生んだ子というので処置に困り、養子に出すことを思いついたのだろう。養子先は、かねてより親しかった式部の伯父為頼に相談した上で、年齢的に自然だというので、長男の伊祐(式部の従兄)に白羽の矢が立ったのではないだろうか。『尊卑分脈』には「依親王命伊祐扶養為子」とあるが、具平親王家との絆が深まるなら願ったりかなったりで、為頼も伊祐も断るなど考えてもみなかったろう。ちなみに頼成が伊祐の実子でないのは確実で、兄の頼祐は治安2年に下国の伊賀守であるのに対し、頼成は翌年には上国の阿波守である。また、頼祐の妻は令宗利業女であるが、頼成の妻は藤原惟憲女で、後一条天皇の乳母になった惟憲女(藤原美子)の姉妹に当たる。惟憲自身も受領を歴任しており、かなり羽振りがよさそうだ。また、子孫も頼成のほうが出世しており、これだけ兄と差がつくのは、養子の件が周知の事実だったということを表しているにほかならない。
 角田文衛の仮説によると、頼成が18歳で雑色になったとするならば、出生は正暦五(994)年となるとのこと。紫式部は22歳、結婚前の娘には衝撃的な話だ。しかも、土御門邸に出仕する以前に具平親王邸に宮仕えしたという説が本当なら、さらにショックだったのではあるまいか。
 そうなると、式部が具平親王のことをどんな風に思っていたか、が次なる焦点になる。近藤富枝は頼成の母はもしや式部ではないかと言っているが、まさかそこまで想像せずとも、尊敬し、あるいは恋していた(かもしれない)具平親王の行状に、式部は幻滅を感じずにはいられなかったろう。養子話の一件は式部には疎ましいことだったに違いない。のちに『紫式部日記』で道長に頼通の縁談のことで相談され、具平親王のことを考えてふさぎ込むくだりがあるが、当時を思い出すだけでも、式部の心を沈ませるには十分すぎるくらいである。
 しかし、式部が親王をどれほど想っていたにせよ、光源氏の面影の一端をこの親王に担わせたのは確かである。夕顔の巻は、明らかに親王の醜聞を素地にしているからだ。親王は寛弘6(1009)年まで生存していたのにもかかわらず、思い切ったことをするものだ。それとも式部は、親王の恥を読者に知らせるような行為をすることで、女の恨みを晴らしたのだろうか。だとすれば、式部はなかなかコワい女である。

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