アンドリューNDR114
“1人”のロボットの、200年に亘る“生涯”を追つたドキュメンタリー風の映画(、だと私は思つた)。
お話は割に普通だつたし、出てくる一見技術的な会話はあまり高度とは言ひ難い薄つぺらなのもので、近未来の風景描写も敢へて(?)陳腐な雰囲気だつたけど、それだけに主人公の一貫した生き方(所詮ロボットだけにそれが信条なのかも。でも結果的には変容を遂げるのだが…)は前面によくあらはれてゐたやうな気がした。
人間は必ず死ぬものだ。寿命があることは自然の摂理であり、それが人間といふものだ。……。不老長寿の機械を人間として認める訳にはいかない。認めればそれを望む者が羨望し問題を起こす。……。ときには間違ひをして冒険することも必要なのだ。外見の変化より内面のそれがより大切。……。人は何故異性と交はるか。……。などなど、なかなかに哲学的内容も孕んだ人間再発見的主題も扱はれてゐたやうだけれど、恐らくその多くは原作で触れられてゐるのだらうし、こゝではそれらは置いて、映画としてできあがつたものに対する断片的な感想をいくつか書いてみたい。
オープニング
出演者や主要スタッフのクレジット文字が、バックに映るロボット組立工程の映像に同調しつゝ動いてゐたのがおもしろかつた。かういふ遊びは日本語でも可能だけど、やはりアルファベットの方が簡単で効果的なのだらうな、と思つた。そして、これはいふまでもなく本では味はへない映像ならではの表現。
時間経過描写
何しろ200年だ。それを2時間で描くにはどこかで場面を転換させねばならない。時代は何度となく変はつたのだが、最初の変はり目が、なかなかすてきだつた。
ロボットが仕へる家の次女(たぶん年齢1桁。長女が「ミス」なので「リトル・ミス」とよばれてゐた)とロボットが連弾をするうちに双方がどんどん腕を上げ、1曲が次第に高度なアンサンブルに変容し、曲が終はつた時点では次女はいつの間にか結婚適齢期ほどの年齢になるといふ場面。もちろんピアノ連弾は淀むことなく続く。『ノッティングヒルの恋人』にも本屋の主人が街を歩くうちに季節が移り変はるといふ時間変化の場面があつたけど、かういふ雰囲気はなかなかいゝものだと思ふ。これも映画ならではの楽しみだらう。
間接的な時間経過表現を除く直接的な時間経過表現は、このピアノ連弾場面のほかは、字幕に「何年後」といふ類ひの文字が出るだけだつたので、この最初でかつ滑らかな変移はとても印象的。「どこか好きな場面を」と言はれたら、そのうちのひとつに挙げたいところだ。ちなみに、記憶力の良い家内によれば、この連弾の場面は映画の新聞広告で採用されてゐたさうだ。
建物や道具と人々のことなど
先にも触れたが、“近未来”が何やらひと昔前のSFを思はせる建物や家具・道具などで描かれてゐたのだけれど、随所に“人の温かみ”が残つてゐるのが安心感を誘つた。物が変はつても、生活する人間たちは何も変はつてゐなかつたといふことも、その安心感に繋がつてゐたかもしれない。未来を意識し過ぎるあまりか、やたらに冷たい人間が跋扈するやうな話もあるみたいだけど、この映画はさういふこととは無縁だつたやうに思ふ。まあ、何しろ機械が人にならうつていふ話だから、そのあたりは作り手も心得てゐたのだらうねえ、きつと。
さういへば、“リトル・ミス”の孫娘(後の重要人物)が年頃になつた時代にも、その人たちの住居は周囲の近未来的建築をよそに古めかしいたゝずまひが維持されてゐた。
子供の叱り方
姉が従順なロボットを苛めた結果、姉妹は親に叱られる。屋内階段にほど近い場所で2人は(ロボットとともに)整列させられてゐたのだが、この整列・指導の光景に、『サウンド・オブ・ミュージック』で厳格な父が子どもたちを統率してゐる場面を連想した。
が、聞くところによれば、呼びつけて並べて指導するといつた光景は他のアメリカ映画にもしばしば登場するらしい。彼の地ではこれが標準的な子どもの叱り方なのかもしれない。
アンドリュー命名の由来
“アンドリュー”は主人公であるロボットの名前だが、初代“リトル・ミス”嬢が、姉の「アンドロイドよ」との説明を聞いての反応がきつかけ。これはなかなか微笑ましきものであつた。
冗談の字幕翻訳
ロボットの購入者で人間的成長を促した主人がロボットに冗談を教へ、数多くの“冗談”が出てくるが、それらはもちろん英語。英語力のない私らは字幕が頼りだが、字幕で読むことになつた冗談は日本語でこそ通用する内容が複数(もしかして全部?)だつた。ほとんどが新たに考案することになるのだらうことを思ふと、つくづく翻訳版の制作者に偉大さを覚えた。字幕翻訳は大御所の戸田奈津子。
音楽
音楽はジェームズ・ホーナー(を中心とした面々)。『タイタニック』や『アポロ13』などでも“いゝ仕事”を楽しませてもらつてゐたので結構期待してゐたが、そこそこ期待どほりだつた。オープニング・テーマはメカニカルなオーケストレーションが支配的でちよつぴり安易だつたかもしれないけど、映画の全体を見渡すと実は丁度いゝ按配なのかなとも思つたりする。また、ホーナー製以外の数々の既製曲も使用されてをり、それらは、フィクション映画に一種の親しみをもたらす効果があるやうな気がした。
人命尊重
描かれる死の場面は、寿命による自然死または老化による病死もしくは自己意志による尊厳死であり、殺傷場面はなかつた。例によつてこの手の映画は私の好みである。派手な場面があり殺人も起こつたりするアクション映画を好む人たちには物足りないだらうけれどね。(私も派手な映画は嫌ひぢやないよ。たゞ、やたらに人が殺されたり簡単に暴力沙汰になる場面が少なくないのは好きぢやないのだ)
(2000年6月8日 シャンテ・シネ1)
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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版
(内容については実質的には2000年6月9日版)