31 日本名庭100選〈庭園の歴史とその見方〉
 
〈林泉庭と路地庭〉
 △廻遊式庭園・林泉庭
 幕藩体制の確立とともに近世大名が出現しますと,その財力を傾けた廻遊式庭園が現
れます。江戸の街にあった諸侯の上・中・下の各屋敷には後庭(書院の後方にある庭)と
して大庭園が営まれ,また,その封地である各地各都市(城下町)にも庭が次々とでき
ました。本稿で紹介します各地の庭の多くがこれです。そのプランは一様に歩いて探勝
できるように,あるところは明るい解放的な池泉庭とし,またあるところは幽邃ユウスイな
深山の景をつくったりしました。これらは,自然の忠実な再現と自然の凝縮(手入れを
して木々の生長を止め,作庭時の意図をそのまま生かす)でありました。このような庭
を林泉庭といいます。
 △城郭庭園・大名庭園
 前述しましたように近世諸侯が作庭したものの多くが廻遊式庭園ですが,その別名を
大名庭といいます。そのはじまりは,織田信長が安土城又は岐阜城の御殿の周囲に作庭
したことにより,豊臣秀吉が聚楽・伏見両城に風雅を楽しむための一画「山里曲輪」を
築いて,茶の湯を楽しんだことで流行を生みました。徳川家康は山里曲輪として西の丸
をつくり,後に吹上へと徳川家光が築きあげたのです。これら城と関わりあいますが,
近世諸侯の中には,元和偃武により城の改修ができなくなりましたので,庭づくりと称
し,山里曲輪的な築城したものが多くなりました。岡山後楽園・兼六園・水戸偕楽園・
津山衆楽園をはじめ,城に隣接して形成された廻遊式庭園がこれです。このような庭園
を城郭庭園といいます。
 △縮景庭
 廻遊式林泉庭の多くが,その寓意を自然に求めたことは前述しましたが,手本となる
風景がある場合,凝縮して作庭しました。多くが壮大な庭ですので,中国の浙江省の西
湖,湖南省洞庭湖にその手本を求めましたが,わが国の名勝である松島,天の橋立及び
東海道と富士山なども多く,京では近江八景・瀬戸内の景などにも求められました。
 △茶庭=露地
 戦国乱世から天下統一に進むにつれ,その覇者は配下の武将へ,合戦の功賞を与えて
いましたが,その基盤となった土地が絶対量不足となることは明きらかとなりました。
そこで覇者は,土地に代わる功賞物を考え出しました。刀剣,茶器,家紋や姓氏などで
す。その中でも単なる茶碗として片づけられない茶陶が一国の封地に相当する価値を生
じさせていくのです。いわゆる名物です。こうして,茶の湯は,武将間に流行し,信長,
秀吉の配下には出身が商人でありながら茶道の指南役として千利休らを大名格にとりあ
げるに至りました。既に室町期に,一休和尚,村田珠光らが出,茶道芸術をつくり,境
の豪商「武野紹鴎」により大成されました。紹鴎は利休に教え,利休は「侘ワビ茶」「
さび茶」を説き,その教えは小堀遠州,さらに片桐石州,上田宗箇らに引き継がれ大名
茶をもたらしました。これら武門武士との関わりは,山里曲輪の出現を見,廻遊庭の中
に茶亭,四阿アズマヤをつくらせました。また専ら喫茶のための茶亭とそれに付属する踏
石,蹲踞ツクバイ(手水鉢)からなる茶庭としての露地が利休によってあみ出されました。
桃山期より江戸期にかけての茶庭=露地は遠州の狐篷庵に見られるように,斬新で,自
由な構成を持ちましたが,次第にパターン化して,ついには燈篭の据え方,踏石の配置,
蹲踞に至るまで,厳しい規則ができてしまい,変化に乏しいものとなりました。
 
〈洋式庭園と近代の庭〉
 明治維新前後は,庭園の存在を忘れがちでしたが,明治20年を過ぎるようになります
と山県有朋,岩崎弥太郎などにより,江戸期の固定してしまった茶庭を中心とした作風
に強い反発が現れました。有朋を中心に京の植治(無鄰庵参照)らの庭師が古代の庭園
の遣水曲水を中心とした自然順応主義の作風を唱え,多くの庭が東京・京都に出現しま
した。一方,明治の元勲らは,若き日を欧州に遊学したことから,西欧の庭園を取り入
れた公園をつくり出します。都市公園としての第一号は明治4年の横浜の山手公園(外
人専用)で,同7年起工の横浜公園は本格的に西欧風庭園です。さらに同22年の公園設
置法により,同36年に日比谷公園ができました。洋式庭園の最も著名で美しいものは,
大正末年にできた横浜港の山下公園です。
 そして,現代,庭は一般庶民にも手軽に築けるものとなりましたが,作庭家としての
最も興味ある作品は,最も芸術性の高い枯山水庭です。ホテルのロビー,超高層ビルの
前庭として,そのモダンなたたずまいは現代の建築にとって欠くことのできない景物と
なったのです。
 
                     参考:「日本名庭100選」秋田書店
[次へ進む] [バック]