33a 植物の世界「サクラソウの保全」
 
〈花粉の付き分けと自然選択〉
 自然豊かな自生地においては,トラマルハナバチの女王がサクラソウの花を実際によ
く訪れます。それが「有効な」送粉に役立っているかどうかは,その訪花と吸蜜キュウミツに
よってどのような花粉の伝達がなされるか,と云う点から評価されなければなりません。
そのことは,異型花柱性がどのような自然選択によって進化し,また維持されているか
と云う問題とも深く関わりますので,少し詳しく述べましょう。
 
 異型花柱性は,雌雄異株性や雌雄異熟性,また生理的自家不和合性一般と同じように,
他殖を促進する役割を持つことは既に述べました。他殖は,自殖によって生まれた子孫
が,生存力や繁殖力が弱いような場合に進化すると考えられています。
 異型花柱性の最も目立つ形態的な特徴,即ち@個々の個体の花の中においては葯と柱
頭の位置がずれていて,A異なるタイプの花の間においてはそれが一致しています。と
云う性質がどのような選択圧に応じて進化し,維持されているかは,ダーウィン(1809
〜82)の問題提起以来,今日まで実験・測定と理論の両面からの検討が続けられていま
す。そして,三つの推測される効果,つまり,@自家受粉を避ける,A自家受粉や同タ
イプの花の花粉が和合性のある異型花粉の柱頭への付着を妨げるのを防ぐ,B異なるタ
イプの花の間の送粉を促進する,と云う効果のうち,ダーウィンが最初に提唱したよう
に,Bが特に重要と考えられています。
 
 ところでBは,異なるタイプの花の花粉が,昆虫の体の異なる部分に付着して初めて
生じる効果です。果たしてそのような花粉の付き分けが実際に起こるでしょうか。ダー
ウィンもこの問題には可成り意欲的に取り組みましたが,それは自然選択の作用の仕方
を明瞭に示す好例だからです。
 ダーウィンは,三型花柱性植物のエゾミソハギにハチが訪れたとき,最も高い位置の
葯の花粉はハチの後脚と腹部の内側に付きやすく,中間の位置と低い位置の葯由来の花
粉は胸の下に付着しやすいと云う,花粉の付き分けを観察しました。また,死んだハチ
の口器や針などをサクラソウ属の植物の花の中に差し込んで,花のタイプによって口器
や針の異なる部分に花粉が付着することを観察しています。しかし,イギリスにおいて
研究材料としてよく用いられたプリムラ・ウルガリスなど黄花のサクラソウ属について
は,送粉昆虫が何であるかが長い間謎でした。長い論争の末,比較的最近になって漸く,
夜行性のガが重要な送粉昆虫であるとの結論に落ち着きました。そんなこともあって,
野生のサクラソウ属植物の花粉の送粉昆虫の体への付着の分析は,これまでは殆ど行わ
れませんでした。
 
 最近,京都大学加藤真助教授等は,サクラソウの花を訪れた直後のトラマルハナバチ
の女王の口器における花粉付着の分析を行い,実に見事な花粉の付き分けが起こること
を明らかにしました。長花柱花と短花柱花において花粉の大きさが異なることは,その
ような分析に好都合です。走査型電子顕微鏡による観察から,葯を高い位置に持つ短花
柱花の花粉は口吻コウフンの元の方にだけ付き,長花柱花の花粉は主に舌の先の方に偏って
付着することが示されました。更に,先に異なるタイプの花から吸蜜したトラマルハナ
バチの女王が1回でも花を訪れれば,柱頭には和合性のある異型花粉が十分に付着する
ことも示されました。花粉の口器への付き分けによって,有効な送粉が起こることは,
どうやら確かなようです。
 
〈共生ネットワークによる保全〉
 トラマルハナバチなど,送粉昆虫のサービスが十分なサクラソウの野生集団において
は,どのタイプの花も種子を十分に生産します。それに対して,孤立し,送粉昆虫の乏
しい生育場所の集団においては,種子生産は概して低く,タイプ間の違いも大きい。等
花柱花個体の種子生産だけが大きければ,強い自然選択が働いて,次世代には集団の遺
伝的多様性が大きく損なわれる可能性があります。
 生育場所やその周囲にトラマルハナバチが生息し,その女王がサクラソウを訪れれば,
サクラソウの種子生産は健全な状態に保たれます。マルハナバチは,蜜や花粉を提供す
る花が四季を通じて咲き続ける生育場所でなければコロニーは維持出来ません。そのた
め豊かなフロラ(植物相)はマルハナバチ繁栄の条件となります。また,マルハナバチ
はネズミの古巣などを利用して営巣しますが,利用可能な営巣場所の数によって地域の
コロニーの数が制限されることが知られています。従って,マルハナバチに古巣を提供
する動物が十分に生息していることも必要です。そう考えてみますと,サクラソウの種
子生産は,生物共生のネットワークの豊かさを映し出す鏡と云えます。
 他方,蜜や花粉を食べる昆虫だけでなく,多種類の昆虫がサクラソウを利用して暮ら
しています。花を隠れ家や交尾場所として利用するもの,花,果実,種子などを食べる
もの,葉を食べたり,汁を吸うものなど,様々なです。
 
 埼玉県南部から東京都にかけての荒川沿いには,かつては多くのサクラソウ自生地が
あり,江戸の庶民たちが,春にサクラソウのお花見を楽しんだと伝えられています。し
かし,現在においてはそれらの殆どが失われ,特別天然記念物「田島ケ原タジマガハラサク
ラサウ自生地」だけが往時の面影を留めています。ところが市街地の中に孤立したこの
自生地においては,稀にチョウが訪れる位で,サクラソウの花を訪れる昆虫は少ない。
そのためか,タイプ間における種子生産の偏りが大きく,等花柱花個体の種子生産のみ
が目立ちます。
 サクラソウと云う種の保全は,その一端を此処において紹介しましたようなサクラソ
ウを一つの結び目とする生物共生のネットワークの保全でなければなりません。重要な
送粉昆虫が失われた自生地においては,保全のためのポリネーターセラピー,つまり適
切な送粉昆虫を診断して,その個体群を自生地に導入・定着させるような「管理」も必
要となるでしょう。そのような管理は,共生ネットワークの生態と進化をより深く理解
するための「実験」ともなるように計画されることが望ましい。生物共生のネットワー
クが結ばれて維持されるためのメカニズムを理解することなしには,「生物の多様性」
を適切に保全することは出来ないからです。
 花の進化をもたらす自然選択を図り,同時に種の保全のための条件を探るための「サ
クラソウを巡る生物間相互作用」の研究は,今此処に始まったばかりです。サクラソウ
に限らず「進化」と「保全」を二つのキーワードとする花の研究の重要性は,今後益々
大きくなって行くことでしょう。

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