05 植物の世界「菊と日本人」
植物の世界「菊と日本人」
参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
わが国を代表する花とされる菊。しかし,157種類もの植物が詠まれている「万葉集」
に,菊は全く登場しません。菊を愛でる文化は,何時,どのようにしてわが国に根付い
ていったのでしょうか。
私共日本人の生活様式や,ものの見方,考え方が大きく変化してきたように,キク(
菊)に対する日本人の見方も各時代,各社会毎に変化を重ねて来ました。
古代の日本列島には,いわゆる野菊を別にして,鑑賞の対象になるキクの実物が存在
しない時期が長く続いたと考えられます。その後,まず奈良時代には中国の詩文を学習
することを通じて,"菊"の呪術的な力や象徴効果に関する知識が輸入されました。次に,
平安時代以後,本草学ホンゾウガク的な関心から輸入された種苗シュビョウを宮廷内外において
熱心に栽培した時期があり,詩歌や絵画,装飾意匠にも採り入れて,貴族芸術の重要主
題に据えた時期があります。江戸時代になりますと,次第に実力を蓄えてきた庶民階級
が自らの手によって"品種開発ブーム"を巻き起こし,菊細工や菊人形まで創意工夫した
時期が続きます。
そして,江戸周辺において創出された美しい園芸品種のキクが,18世紀末以後,ヨー
ロッパ各国にもたらされるようになります。それらはフランス及びイギリスの優秀な栽
培家の努力によって,更に改良が加えられ,「日本のキクは花の形,色,変化の点にお
いて無際限とみられ,人々は季節ごとの展覧会を待ちかね」ると云った新事態まで生ま
れました。折からのジャポニスム(日本美術への心酔)の新思想に誘われ,その美しい
キクの"原産地"を見るために明治初期の日本にやって来た,フランスの海軍士官で作家
のピエール・ロティのような人さえ現れました。そして彼は,その日本体験を基に代表作
『お菊さん』(1887)を書いたのでした。
明治政府はその発足に当たって,明治元年(1868)に菊花を皇室の紋章と定めました。
明治後半期以降になりますと,キクは専ら国粋主義や軍国主義に乱用され,その結果,
外国人の目からは,キクと云えば,日本人の伝統的メンタリティーのマイナス面を象徴
するものと受け取られるようになりました。そうした中においてルース・ベネディクトの
『菊と刀』(1946)は,軍国主義の半面において美の世界に心血を注ぐ日本人の精神的
象徴としてキクを採り上げました。
しかし第二次世界大戦後,少なくとも日本人の間においては,キクは再び平和な庶民
生活の象徴と云う地位を回復し,現在に至っています。
前述のように,「これこそがキクと日本人との関係だ」などと云って,あらゆる時代
に共通するものを指摘することは出来ません。可能なのは,キクを巡ってそれぞれの時
代に何が起こったかと云う事実を正確に跡付ける作業だけです。そこで,日本人とキク
の最初の"出会い"のあった古代に焦点を絞って,少し詳しく観て行くことにしましょう。
〈キクも,キクの美学も中国起源〉
キク目キク科に属する野生種ですと日本列島にも多数分布しますが,現在,日本人が
園芸花として観賞し愛好して止まないキク(或いはその先祖)となりますと,それが日
本列島に自生し分布したと云う証拠は全くありません。
寧ろ,そのようなキクが日本列島に自生しなかったことを示す有力な証拠があるので
す。それは771年に成立した『万葉集』4516首に,この花を詠じた歌を一首も見出し得な
いことです。『万葉集』に登場する植物数は157種類にも上り,当時の人々が,植物に関
する生き生きとした知識体系を持っていたことを示しています。それにも拘わらず,キ
クが和歌作品に登場しない事実から,奈良時代半ばまでは,未だキクの実物(植物体)
がわが国に無かったと推定されるのです。
ただし,ほぼ同時代の漢詩集『懐風藻カイフウソウ』(751年成立)の方には,キクを題材と
した作品が六首見えています。ですから,それらの用例を検討した上でなければ,奈良
時代のわが国にキクの実物が無かったと断定する訳には行きません。
神亀ジンキ三年(726)に,新羅シラギの国使薩倉(冫偏+倉)金造近サツサンコムゾウコン等が帰
国の途に就こうとするに先立ち,その送別宴が左大臣長屋王ナガヤノオオキミの私邸である作宝
楼サホウロウにおいて開かれました。そのとき,長屋王が詠んだ漢詩には「桂山ケイザン余景ヨケイ
下り、菊浦落霞キクホラクカ鮮アザらけし」(木犀モクセイの類の匂う山には夕日の光が映え,菊の
花の咲いている池の岸辺には低く棚引く夕焼けの霞が鮮やかだ)とあります。また同じ
席上においての中納言安倍広庭アベノヒロニワの詩には,「斯れの浮菊フキクの酒を傾カタブけて、
願はくは転蓬テンポウの憂ウレエを慰ナグサめむ」(菊の花を入れて浸したこの酒を飲み傾けて,
さすらいの憂いを慰めよう)との一節があります。
問題は,これらの詩の「菊浦」や「浮菊酒」が,果たして実物の菊を詠んだものであ
ったかどうか,と云う一点に絞られます。
この問題に手掛かりを与えてくれるのは『続日本紀ショクニホンギ』神亀三年の条であり,
この史料によって,新羅貢使コウシが平城京を去ったのは七月二十三日の事であったことが
分かります。従って,長屋王邸における宴は,それより前の日付でなければなりません。
そうしますと,如何に太陰暦であっても,七月二十三日以前にはキクの開花は見られな
いと思量されるので,これらは実物のキクを眼前にして詠んだ詩とは考えにくい。結局,
「菊浦」とか「浮菊酒」とかの表現は,文学的修辞乃至儀式(宮廷儀礼)的常套句に止
まるものであった,と推論するのが穏当でしょう。
長屋王も安倍広庭も,キクの実物を目にした経験などなかったにも拘わらず,学習し
習得した中国の詩文に関する教養を駆使し,新羅国貢使に対する精一杯のもてなしを行
ったのです。
しかし長屋王の場合,キクを愛好することを含む中国的教養が災いして,律令政府の
「左道サドウ(不正な道)取り締まり」の対象となり,邸宅を囲まれ自殺しました。この
事件は藤原不比等フヒトの陰謀と考えられていますが,明らかに冤罪であっても,長屋王が
「左道を学んだ」と云う理由によって謀殺されたとあれば,同時代の知識人貴族等は,
身を守るためにも,その左道と関係ありと疑われやすいキクを詩文の題材にすることは
避けたでしょう。これが,『万葉集』にキクの歌が一首もない,もう一つの理由なのか
も知れません。
何れにしても,奈良時代にキクの栽培が行われていたとすることには,かえって無理
があります。
〈平安王朝文化の花〉
キクが園芸的に栽培され,"菊花観賞"が宮廷儀礼の重要な部分として行われるように
なるのは,桓武カンム天皇が平安遷都を成功させた延暦エンリャク十三年(794)以後のことで
す。このことを文献的に確かめることが出来るのは,菅原道真編『類聚国史ルイジュウコクシ』
(892年成立)です。卷七十五「歳時部」六の曲宴キョクエンの項に拠りますと,平安京遷都
から三年目の延暦十六年(797)十月十一日,宮中において開催された曲水宴ゴクスイノエン(
中国の文人宴を模した宴会)の席上において,桓武天皇がキクを題材にした,次のよう
な即興の和歌を朗詠しました。
己乃己呂乃コノゴロノ。志具礼乃阿米爾シグレノアメニ。菊乃波奈キクノハナ。知利曽之奴倍岐チリゾシヌ
ベキ。阿多羅蘇乃香乎アタラソノカヲ。
また,同書卷七十四「歳時部」五の九月九日の項を見ますと,桓武天皇の子の平城ヘイ
ゼイ天皇の大同ダイトウ二年(807)頃には,九月九日の重陽チョウヨウの節供セック当日に菊花宴を
開くことが恒例になり始めていたことが分かります。こうして,8世紀末から9世紀初
めにかけて,中国原産のキクは,わが国の宮廷社会に根を下ろすことになるのです。
桓武天皇の子で,平城天皇の弟の嵯峨サガ天皇は,「唐風トウフウ崇拝の帝王」と云われて
いました。そして,嵯峨天皇が桓武天皇に始まる"新王朝"建設の第1期工事を完成させ
る頃には,キクは,唐風の学問や芸術などの中においても最も重要な位置を占めるよう
になり,名実共に「古典文化の花」となりました。
わが国において最初の勅撰チョクセン漢詩集「凌雲集リョウウンシュウ」(814年成立)の冒頭には,
「菊は花開かむとして千宮センキュウに宴ウタゲあり。蘂シベは朝風に耐へ、今日笑エマふ」
に始まる一首など,嵯峨天皇の作であるキクの詩が3首並んでいます。
『経国集ケイコクシュウ』(827年成立)になりますと,嵯峨天皇がキクを詠んだ漢詩はそれ
こそ無数に登場します。これ以後,平安朝宮廷においては,最早絶えることなく,重陽
の節供とキクの花とは切っても切れない関係を結びました。『西宮記サイキュウキ』(980年頃
成立)など,宮廷の儀礼に関する有職書ユウソクショを読みますと,なお一層このことが確か
められます。
奈良時代以来,文人貴族等が"虎之巻"として常に座右に置いた中国唐代の類書(文芸
百科事典)である『芸文類聚ゲイモンルイジュウ』(624年成立)には,キク及び重陽の節供の
説明や用例が多数掲載されており,古代の知識人はそれを文字を通して学習していまし
た。例えば同書には,キクは百草の女王であり,ジュースやカクテルにして飲むと長寿
不老の効能があり,神仙世界の目印であることなどが記されていました。
ところが平安時代には,キクの実物が宮廷の薬草園から根分けされるようになりまし
た。貴族等はそれに実際に触れ,しかも宮廷恒例の文学宴会に欠かせない題材として目
の前にあった訳ですから,キクと重陽の節供との象徴的な関係を一層緊密に知り得るよ
うになったのです。
[次へ進んで下さい]