F氏の「ドブリデン」ウクライナ訪問記 金賀 一郎
F氏はいろいろ反省している。去年のモンゴル訪問に味をしめ、次はどこに行こうか考えた。
突然、未知の黒海を見たい、思い立ったらウクライナ。さっそく根回しを始めるF氏。
まず、キエフ市とオデッサ市にメールを出したのが去年の11月。その時、抜け目無く自分が
マジックを見せてまわるボランティアなどと自己宣伝。
さて、いまだ現役のサラリーマン、2週間もの遊興的休みは、気まずい話。
ウクライナといえば、チェルノブイリ原発事故。NGO「チェルノブイリ子供基金」に参加、
救援コンサートのボランティアを始めた。去年は親善協会、今年はNGOの派遣で行くとなれば、
水戸黄門の印籠みたいなもの。
そのうち、オデッサからメールが届く。
6月始めにデラックスな市民ホールでマジックショー、市民に広く喧伝しよう、ところで日本のプロのマジシャンだろうね。とF氏をおじけさせるようなメール。
すべてに適当なF氏、あわてて場所は粗末で結構、ほどほどの小人数の市民達やエスペランティストと交流をしたいだけ、マジックは素人のお遊び程度、あせるF氏。
さて会社には、消火器を売り付ける詐欺師「消防署の方(方向)からですが」同様、
「NGO関連でボランティアマジックを見せに行く」と。
抜けているのが「NGO関連であるウクライナに」。
マジックに備え、片言のウクライナ語を覚え、新ネタを練習。
三浦の全国合宿もマジック練習のため。
5/31成田からアエロフロートで約15時間。キエフから中欧古都のリボフ、そしてオデッサへ
夜行寝台で移動。
オデッサ青年エス会の指導者タチアナさん、メンバのオルガさんが出迎えてくれる。
ウクライナ語でこんにちわ「ドブリデン」。
みな変な顔、オデッサはロシア語。ウクライナ語は使わない。
ああ、せっかくのウクライナ語も無駄となる。
会場は「科学者の館」、すばらしい屋敷のホール、この屋敷は文豪トルストイの家で、
ソ連時代に接収されたとタチアナさん。
しかしなぜそんな屋敷がガイドブックに記載されていないのか、多少の疑問をもちながらも
内心二ヤ。
入り口にはポスター、日本のマジシャンヒロフクダとある。
同時に民族楽器バンドゥーラのコンサートも準備され、計2時間のスケジュール。
日本について、例のごとく身近な話題、パソコン写真で我が町鶴ヶ島など、たわいもない話ばかり。30分経過、雰囲気になれた頃マジックに移る。
50人の椅子も満席、立ち見もでている。鶏がタマゴを産み、座は盛り上がる。
地元のテレビ局がビデオ取材、ますますいい気になるF氏。
バンドゥーラの演奏に移る、素晴らしい演奏。成功裡に終了。
オデッサ青年エス会事務所で反省会、持参した知恵の輪が人気、
エス会話もなしに夢中になって取り組んでいる。
エスに疲れたF氏はホッとしてリラックス。タチアナさんは早口でエスを話すが、
最近ますますエスに疎くなっているF氏は、半分も理解できない。
ああ情けない。マジックはいい、言葉が要らないと、エスペランティストF氏つぶやく。
(おわり)
以下は池袋エス会の会誌クロコディーロに掲載する旅行記
ウクライナは遠い。
成田からロシアの飛行機アエロフロート、モスクワ空港でキエフ行きの飛行機に乗り換えて、通算15時間。
アエロフロートのサービスは官僚的、疲れる旅である。
じとじとした雨のキエフは5月31日、夜の11時。
タクシーで30分、名前だけは立派なブラティスラバホテル、ソ連時代の遺産的なホテル、各階に鍵を管理するオバサンが頑張っている。
給湯がストップしている古臭い部屋で、シャワーも浴びず疲れて就寝。
ウクライナに行こうと思い立ったのが、モンゴルの余韻が残る去年の11月。ヤルリブロでウクライナエスペランティストを調べ、メールでエスペラントの春の行事を教えてくれと送信。
オデッサのエス会verdajxoから、会合を準備できるからとの返事をもらう。
さっそくメールで、オデッサ市民にマジックを紹介し、更にエスペラントの存在も紹介したいなどと大胆な提案を送る。
じつは、最近ますますマジックにはまっているkampoはビデオで研究、新ネタをマスターし、他人に見せたくてしょうがない素人手品師。
それにしてもデラックスな市民ホールを準備できる、当然プロフェッショナルマジシャンだよねとの返事には、自己宣伝しすぎたとkampo大慌て。
去年は親善協会、今年はNGOがらみがいいと、不実なたくらみをめぐらす。
ウクライナといえばチェルノブイリの原発事故、ホームページでチェルノブイリ救援組織を探索。
驚くことに事故後16年たっても救援団体は存続し活動している、「チェルノブイリ子供基金」フォトジャーナリストの広河隆一氏が組織するNGO団体。
救援コンサート準備会に出席、次の日曜日には世田谷区全域の広報用看板にポスター貼りをし、足が棒のエセボランティア。
その後もビラ配りやアフガン支援映画会でコンサートを呼びかけたり、熱心な活動家に変身した。かたや「アレクセイの泉」「ナージャの村」を鑑賞し、脱原発の講演会にも参加。kampoらしくない、問題意識の高い市民活動家ぶりである。
救援コンサートも成功裡に終わり、NGOの活動家達とも仲良くなり、いよいよNGOの本格的なボランティア(?!)。
会社には、救援コンサート活動などをつぶやき、ボランティアマジックをウクライナに見せに行くと、なんとなく大義名分らしくNGOをちらつかせる。
はれて11日間の休暇を確保、それからは日本の紹介ネタを物色したり、説明文を準備しパソコン写真を示しながらの練習、マジックも当日の出し物の準備やビデオで実技練習を重ねる。実演練習のため三浦全国合宿に参加、その後も大塚のそば屋で詩吟の会とジョイント公演。ついでにサイドホビーである「知恵の輪」も準備。
で、トラさんならぬマジックを詰めたトランクを抱えて成田を発ったのが5月31日、ワールドカップ開会日である。
キエフの第一日目もどんよりとした雨模様の日、まずはチェルノブイリ子供基金が設立運営援助している、被爆した子供たちのリハビリセンターに向かう。しかし、その所在するエリアまではタクシーでたどりついたが、その場所がわからない。いろいろ聞きまわり、病院の受付にも電話をかけまくってもらうが、日本が援助しているリハビリセンターが分からない。この地区にくれば有名で誰でも知っていると思い込んでいたが、どうも日本の片思い的存在か。
キエフ市のはずれにある、チェルノブイリ原発事故博物館に行く。
悲惨な状況が生々しく展示されて事故後16年、博物館はしずかに町に埋もれている。
キエフ市内はにぎやかである、マックドナルドが目に付く、市場経済に移行した国では、このマックとコーラとカラオケがその象徴かのように。
資本主義侵略のパロディか、マックのロゴマークとともにレーニンの顔が印刷されたマックレーニンTシャツが売られている。
共産主義から開放され、虐げられていた宗教も今は日常の生活に溶け込んでいる。町のあちこちにあるロシア正教の教会が素晴らしい。
夜行寝台車でリボフに向かう、車中12時間。
中欧古都リボフ、中世の都市がそのまま保存された町、ポーランドの国境に近く過去はポーランドに属していた町である。
町の建物はまったく手付かず、戦争の被害に会っていないかのように古式蒼然としている。路面電車が、昔の馬車のわだちが残る石畳を縦横に走っている。
ああー落ち着いた町。
どこを歩いても歴史の重さを感じさせる。
やはりキエフ同様に、町のあちこちに古い重厚な教会があり、鐘の音が響く。
朝は「ドーブリラーノク」昼は「ドーブリデン」夜は「ドーブリベーチェル」おぼえてきたウクライナ語を試す、ありがとう「ジャークユ」。
オデッサに向かう夜行寝台列車に乗るが、同室者が二人、ロシア語をしゃべっている、ジャークユと言っても不審な顔、スパシーボとロシア語で返ってくる。
ああ、ロシア人達だ。
あとはお互いそ知らぬ顔。二人はロシア語でうるさくしゃべり続ける。
最終目的地オデッサに13時間、朝ホテルでシャワーを浴びていると電話。
ロビーにオデッサエスペランティストのタチアナさんとオルガさんが出迎えに来てくれる。
日本人にはまったく会わず、英語の単語とウクライナ語の挨拶程度で過ごして、成田を出てから7日ぶり、通じる言葉エスペラントが話せる嬉しさは久しぶりである。
そこで「ドーブリラーノク」と挨拶したら、笑いながらタチアナさん「あなた知ってるの、オデッサではロシア語をしゃべるの、ウクライナ語は使わないのよ」
あー、手品をやるときに使おうと、日本でウクライナ語の挨拶、数字の1から10、そして赤青黄緑の色をからっぽの頭に必死になって叩き込んだのに、無駄になった。
オデッサは黒海に面した港町、「黒海の真珠」とも呼ばれているエキゾティックな町である。町は緑に包まれて、通りを歩くと菩提樹の花の香りがただよう。
一日中、タチアナさんはオデッサの町を案内してくれた。
古い博物館に案内してくれる。館長は女性、実は相当以前に日本に滞在したことがあり、日本語が出来る。最近はほとんど使っていないので錆付いているといいながら、立派な日本語をはなしビックリさせられた。「オデッサ郊外の自然」写真展が素晴らしかった。
プーシキンはオデッサ市民の誇りのである。
きょうはプーシキンの誕生日、プーシキンの生活していた建物の前にプーシキン像が立っており、お祝いの花束がおかれている。
タチアナさんはまたビックリさせてくれる。ある古い建物の中庭に案内してくれるが、そこで見たものは何とわがザメンホフの像である。ソ連時代に建立されたという。墓参りのようにほうきで落ち葉などを掃きとり、写真撮影。
オデッサを知るべく日本で、あのビデオ「戦艦ポチョムキン」を見た。有名なシーン、海に向かって作られた大きな石造りの階段、そこで銃剣を持った兵士達が民衆を虐殺する。母親が撃たれ、赤ちゃんが乗ったままの乳母車が、階段をがたがたと落ちていく。
この有名な階段付近を是非見たいと思っていたが、歴史の保存は難しい。
その階段の先は多くの自動車が舗装道路を走り、船が着く大きな近代的建物が、さらに高層の最新ホテルがそびえている、近代的風景一杯。
タチアナさんは、またビックリさせてくれる。
徒歩で数分、ある古い建物に案内してくれるが、入り口には看板がある。
そのポスター中央には、キリル文字でヒロフクダと書いてある。
明日の会合にそなえ、ポスターを作ったとのことで、マジシャンヒロフクダの公演案内だ。一瞬、ドキッとする。
建物の中に案内されまたビックリ、立派な貴族の屋敷だ。
タチアナさん、実は今は科学者の館だが、元はあの文豪トルストイの屋敷だという。奥の部屋はトルストイ博物館みたいになっており、写真や系図などいろいろ掲示されている。
トルストイは召使の洗濯女と駆け落ち結婚したが、後に両親がこれを許し、この屋敷を買って与えたものだという。これが博物館の掲示に書いてあると言う。
しかし、旅行ガイド本の「地球の歩き方」などにはいっさいこの存在が掲載されていない。エスペランティスト誰もが知っているように、彼はエスペラントをわずか2時間で読めるようになったともタチアナさんは説明してくれる。
図書館で調べたら、トルストイはある医者の娘と結婚したとあり、オデッサに住んだとは記録されていないので、いまだ疑問であるが。
その立派な客室で、ウクライナ青年エスペラント会の会合が開かれた。
テーマはLudo kaj kanto、数人が集まり、持参した知恵の輪を紹介、良いコミュニケーションの手段となる。
geblinduloj( Evgenija,Nikolao)がエスペラントに訳した素晴らし歌をたくさん披露してくれた。
ホテルに帰ったのが10時、一日中タチアナさんは案内してくれ、またビックリさせてくれ嬉しい一日を過ごした。
しかし、タチアナさんは本当に大ベテランのエスペランティスト、非常に流暢にエスを話す。が、こちらは、うろうろエスペランティスト、語彙が不足しているので、彼女の話に追いついていけない。特に歴史を説明してくれたりすると、頭の中での整理が追いついていけないので、理解は半分疲れがたまる。
ぐっすり寝た翌日は、オルガさんとサーシャさんが黒海の海岸に案内してくれる。天気が悪く、なんとなくどんよりと黒い海、時折雨が降る寒い散歩となる。
ベジタリアンのオルガさんにあわせ、ベジタリ料理を昼食に。
彼女はモルドバ人、語学が趣味でエスはぺらぺらだ。
サーシャはビール会社に勤めるサラリーマン。
午後はサーシャとセーヴァが聖ミハエル教会に案内してくれる。
素晴らしく大きな教会、結婚式の花嫁を見ながらホテルに戻る。
4時からいよいよ公演開始。
日本について身近な話題を、大きめに作ったパソコンから読み出した画像を見せながら説明。
画像を多めに作っていったので、説明が非常に楽だ。
そして、マジックに移る。
50席ある椅子は満席で、後ろには立ち見も出ている、盛況だ。
ニワトリがシルクハンカチから出現し、コケコッコーと鳴きながらタマゴを産む手品で盛り上がる。
いい雰囲気。
地元のテレビ局が取材にきており、ビデオ撮影されいい気になる。
最後には、紅白のハンカチが出現した後クラッカーで終演。
時間はオーバー、さっそく次のコンサートにバトンタッチ。
民族楽器バンドゥーラの演奏、音楽学校の3年生の二人は素晴らしい演奏を聞かせてくれた。感動を呼ぶバンドゥーラの音色、ピアノとの協奏も一段と素晴らしい。
感動のうちに会が終了した。
このコンサートは、タチアナさんはkampoの為に準備してくれたといってくれたが、おそらく訳のわからない日本人が、ろくでもない公演をやったら観客に申し訳ないことになると、安全策として準備してくれたように思われるが。
いずれ、すべては楽しい雰囲気で終了し、ジャークユであった。
青年エスペラント会は事務所をもっており、そこで皆と反省会。タチアナさん以下数名の青年達が集まった。
タチアナさんが例会の教材を見せてくれる、「
Hanako lernas esperanton.」 ドイチエコさんの本。本書には、「科学者の館」「ポチョムキンの階段」「カタコンボ」「ザメンホフ像」など、本稿で言及したことは教材として記載されていることをタチアナさんに指摘されました。何も知らない日本人ってとこか、勉強不足でしたぁ。
以前から横浜エスペラントロンドと交流し、ロンドの方々やドイさんご夫妻にはとてもお世話になったとのこと。
また、日本に行き沢山のエスペランティストにも非常にお世話になりとても感謝している。
どうか、日本に戻ったらよろしく伝えて欲しいと頼まれた。
そしてその方々の名前をしっかり覚えておられる。
いわく、ドイさんご夫妻、鈴木さん、苅部さん、谷川さん、佐藤さん、石野さんご夫妻、ヤマサキセイコーさん、小林さんご夫妻、犬丸さん。
タチアナさんに、明日は戦時中にパルチザンがたてこもった地下トンネルを見たいとお願いする。
オデッサ周辺の村々の地下は石灰岩の岩盤で出来ている。
1820年頃から村人はこの石灰岩を掘りつづけてきた。
この採掘後長大なトンネルが出来ている。
このトンネルは採掘した石を運び出す馬車の通路になっていたもの。
このトンネルは勝手に掘り進めてきたため、総二千キロもの長さの複雑な迷路となっており、今でも正確な位置が不明なトンネルが残っている。
トンネル内は真っ暗闇、落盤があったり非常に危険で入口は封鎖され、観光客は立ち入り禁止。
このトンネルはカタコンボ(聖なる地下墓地)と呼ばれているが、このカタコンボを愛するPOISKというクラブが存在する。
タチアナさんはこのクラブに依頼して、kampoの為に探検ツアーを計画してくれた。クラブのメンバが2名に、クラブのメンバのタチアナさんの娘さんも参加。
入り口は狭く、匍匐前進でトンネルに入る。
あちこち、壁が膨らんでいる、また支柱となる石積みも土盤の重さにつぶされる状態の膨らみがあり、タチアナさんはこれを妊娠状態といってるが、実際いつ落盤するか怖い状況がある。
パルチザンの痕跡が多数残されており、息をひそめて敵と対峙していた戦時下の恐怖を思わせる。
この滅多に経験できない探検を終わり、荷物をまとめオデッサ駅へ。
タチアナさんとオルガさんが見送りに、夜9時発夜行列車でオデッサを後にした。
タチアナさん、Verdajxoの皆さんelkore「ありがとうジャークユ」
(おわり)