奄美群島の歴史の中で興味をひかれる時期の一つは、奄美群島がアメリカの占領・統治下にあった昭和21年から昭和28年までの時期である。
米国太平洋艦隊および米国太平洋区域司令長官ニミッツ元帥が、南西諸島およびその近海ならびにその住民に関する全ての政治および管轄権ならびに最高行政責任を宣言した軍政布告第一号は有名である。
この布告の中に「本官または本官の命令により解除されたる者を除く総ての官僚、支庁および町村または他の公共事業関係者ならびに雇用人は本官または特定されたる米国軍士官の命令の下にその任務に従事すべし」という項目があって、おおまかにいえば、この方針に基づいて奄美群島の「行政組織」は占領体制の下に組み込まれた。
臨時北部南西諸島政庁発行の「米国軍政布告・命令集」をみると、一連の布告は第1号から第10号まであって、このうち第9号が「公衆健康・及び衛生」に関するものとなっている。第9号の主要な中身は医師をはじめ医療関係者は軍政府より命令のあるまで各自の業務を継続するよう求めるとともに、医療関係者に対する統制を占領軍が行うというものである。このほか、占領軍は1947年には軍政命令第5号のA号によりらい患者の「和光園」への強制入園を命じるとともに、軍政命令第6号では「芸者家」等への週1回の性病検査の義務づけを行っている。
占領下の「県立大島病院」を例にとると、昭和21年には臨時北部南西諸島政庁の管理下で「大島病院」と称した。さらに昭和22年には「大島中央病院」と呼称された。この中央病院という呼称は、当時日本本土部においても占領軍の意向のもとに各都道府県ごとに中央病院と地区病院を設けて体系化するという構想があったが、これと軌を同じくしていると考えられる。昭和25年に奄美群島政府ができると、同政府厚生部の管理下に移った。昭和27年4月には奄美群島政府は琉球政府に統合され琉球政府(奄美地方機関)厚生局の直轄病院になり、昭和28年には社会局の直轄病院となった。この時期はアメリカからの薬品、ガーゼ、包帯などが豊富に使うことができた反面、環境衛生対策は大変で「DDT革命」は他の地区の例にもれなかった。 昭和27年に重症患者は24時間以内に大島中央病院に入院させるという開放病院方式が導入された。この開放病院すなわち、オープンシステムは医師は病院の勤務医としてでなく、開業医として病院の施設を利用するという考え方で、1946年の米国の「病院調査・建設法」の影響を受けているものとみられる。
こうした経緯のすえ、昭和28年12月25日本土復帰に伴い、「県立大島病院」と改称された。一方、占領期は「救らい」の目的でつくられた「和光園」の創生期の時期にあたっており、占領軍から「らい」患者の強制収容が命令され、入園者はもちろんのこと施設を管理する人々も大きな苦労があったことが記録されている。また、名瀬にはじめて保健所ができたのは昭和27年4月に琉球政府厚生局管轄のもとにおいてであった。
今日の県立大島病院(平成11年6月)
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