盧植伝



盧植は字を子幹という。[シ豕]郡[シ豕]の人である。
身長は八尺二寸。声は鐘の音のようによく響いた。
若くから鄭玄とともに馬融に師事し、よく古今の学問に通じ、心を磨く
事を好み、章句にこだわらなかった。
馬融は外戚の裕福な家柄であった。(※馬融は明徳皇后の従兄弟の子で
ある。)芸妓を列べてその前で歌舞を披露させる事が多かったが、盧植
は講義についていた数年間、一瞥もくれた事がなかった。馬融はこの事
により盧植に目を掛けた。
学問を終えた後、馬融の下を辞去して郷里に帰り、家に籠もって学問を
教えた。
盧植は剛毅な性格で大きな節度を備え、常に救国の志を懐き、文章や詩歌
を好まなかった。また、酒は一石を飲み干す事ができた。
時に皇后の父の大将軍の竇武が霊帝の援立し、初めて政権を握ると、朝議
を開いて(自らに)封爵を加えようとした。
盧植は布衣(無官)であったが、竇武が平素より名声を知られていた事
から、書を献じて誤りを正そうとして言った。「私盧植は緯(織物の横糸)
の心配をしない寡婦と漆室邑に柱にもたれて憂えた女がいたと聞いており
ます。(※左伝に曰く。范献子は言った。『人は寡婦でさえその緯を心配
せず、周が失われる事を憂えたと言っております。まさに危険がその身に
及ぶからです。』昭・二十四 琴操に曰く。魯の漆室邑の女が柱にもたれ、
悲しく物思いにふけりながら歌を歌っていた。隣人は心に何か悩みがある
のかと思い、近づいて『悩み事は嫁に行きたいという事かね。何と悲しげ
に歌っておるのだ。』と尋ねた。女は『ああ、貴方は志の無い方です。
全く人の心が分っていないのですね。昔、楚の人が主君から罪に問われ、
私の主人の下に逃げて参りました。その馬が逃げ出して我が家の庭の葵
を踏み荒らしました。そのせいで私は年が終わっても、葉・茎を得る事
ができません。私の西の隣人は羊を逃がしてしまいました。羊が戻って
来なかったので、私の兄にその後を追いかけて欲しいと頼みました。霧
が立ちこめる中で出水に遭い、兄は溺死してしまいました。これから
ずっと兄無しでいなければなりません。これは政治のせいなのです。
私は国を憂い人を傷み、心が悲しくなり、歌っていたのです。どうして
嫁に行く事を望んだりしましょう。』と答えた。そして自ら傷んで、心
を開かなかったので、人から疑われる事となり、裳をからげて山林に入り、
女貞(ねずみもち)の木を見て深くため息を吐き、琴を引き寄せて爪弾き、
女貞の辞を歌った後、首を吊って死んだ。)過ちを深く憂い、将来を慮る
のは君子として当然の情でございます。士人は争友(不善を諫める友人)
を尊重し、義士は切磋を尊ぶものです。書は『謀り事は庶人に及ぶ。』
と述べ、詩は『先人は木こりにも物を尋ねると語った。』と歌っており
ます。(※孝経に曰く。士人に争友がいれば、身は不義に陥らずに済む。
切磋とは友人が互いに骨を切り、それを磨くように正し戒め合う事をいう。
書の洪範に曰く。謀り事は卿士に及び、庶人にも及ぶ。)私は先王の書
を長い間読んで参りましたが、無駄にその瞽言(でたらめな言葉)を、
愛した訳ではございません。今、閣下の漢朝におけるお立場は、周室に
おいて召公が聖主を立て、四海の信望を繋いだようなものでございます。
論者たちは閣下の功績がそれ自体重い物だと考えており、天下の人々は
目を見開いて注視し、耳をそばだてて聞き、これを前代の事に準え、
景風の祚に比しております。(※景風の祚の詳細は和帝紀に見える。)
春秋の義を尋ねれば、王后に後継ぎができない場合はより近い年長者を
選んで後継者に立て、年が同じならば徳によって選び、徳が等しければ
卜筮でこれを決めると申します。(※左伝に曰く。王子朝は言った。
『先王の命に王后に嫡子ができない場合は、年長者を選んで立て、年が
同じならば徳によって選び、徳が等しければ卜によって選ぶのが古代の
制度である。』昭・二十六)今、皇室の血筋の方々はいずれもお若く、
系図を開いてその順序に従って後継ぎに立てたとしても、何の手柄に
なりましょうか。それなのに、どうして天功(誰の手柄でもない事)を
曲げて自分の物とし、己の力による物となさるのでしょうか。(※左伝
に曰く。天功を貪り、己の功とする。僖・二十四)過分の報償はお断り
になり、身の潔白と名節を全うされるのが宜しいかと存じます。また、
当節は天子の御代も長く続かず、続けざまに地方から後継ぎを求めて
おります。これは危うい事であると申せましょう。四方は未だ安全とは
いえず、盗賊どもが隙を窺っており、恒岳(常山)・勃碣(勃海と石山)
は特に悪党が多く、まさに楚人が比を脅かし、尹氏が朝を立てたような
変乱が起ころうとしております。(※左伝に曰く。楚の公子比は恭王の
子であった。比の兄の霊王が立つと、比は晋に出奔した。霊王が死ぬと、
比は晋から楚に帰って王となった。比の弟の公子棄疾は早くその位を奪おう
とし、夜中に人を使って走り回らせ、『王がいらっしゃったぞ。』と叫ば
せた。国の人間は大いに驚いた。(棄疾が人を使って脅迫させると、)
比は自殺した。昭・十三 王子朝は周の景王の庶子であった。景王が
没すると子の猛が立った。尹士は周の卿で、子朝を立てて猛の位を奪った。
昭・二十二)古礼に従って諸子の官(公卿大夫の子弟を教育する官)を
置き、王侯の愛子・宗室の賢才を召されるのが宜しいでしょう。外は道
を教える義を尊び、内は利を貪る心を抑え、能力のある者を選んで用に
沿って爵位を与える事が、幹を強くして枝を弱める道でございます。
(※この文は木を譬えにし、京師を幹として四方を枝と見なしているの
である。前書に曰く。漢が興ると、長安に都を置き、斉の田氏を移し、
楚の昭氏・屈氏・景氏及び諸々の功臣を長陵に住まわせた。これはおそ
らく幹を強くして枝を弱める為であり、山園で奉仕させる為だけにした
のではない。)」
竇武はどの意見も用いる事ができなかった。
州郡は度々盧植に出仕を命じたが、皆応じなかった。
建寧年間に召されて博士となり、初めて身を起こした。