馬援伝



馬援は字を文淵という。扶風茂陵の人である。その先祖の趙奢は趙の将軍
であった。趙奢は馬服君と呼ばれていた為に、その子孫は馬を姓とした。
(※馬服とは馬に車を付けて走らせるのに優れているという意味である。
史記に曰く。趙の恵文王は趙奢に功績があった事から爵位を賜り、馬服君
の称号を与えた。)
武帝の時に二千石の官を与えられ、邯鄲から扶風に移った。(※東観記に
曰く。茂陵の成懽里に移った。)
曾祖父の馬通は功を立て、重合侯に封じられたが、兄の馬何羅が謀反を
起こした事に連坐して誅殺され、馬援の家は(漢朝の)世に名を知られる
事は無かった。(※重合県は勃海郡に属す。馬何羅は江充と仲が良かった。
江充が誅殺されると、遂にその罪が自分に及ぶのを懼れて謀反を起こし、
誅殺された。この事は前書に見える。馬援の祖父及び父は顕官に就く事が
できなかった。東観記に曰く。馬通は馬賓を生んだ。宣帝の時に郎の官を
以て持節(使者)となった事から馬使君と号した。馬使君は馬仲を生み、
馬仲の官は玄武司馬に至った。馬仲が馬援を生んだ。(集解は恵士奇の説
を引き、前書は馬何羅を莽何羅に作るが、莽と馬は同音であり、古字は
通じるとする。)
馬援の三人の兄馬況・馬余・馬員は皆才能があり、王莽の時に皆二千石
(太守)となった。(※東観記に曰く。馬況は字を君平、馬余は字を聖卿、
馬員は字を季主という。(汲本・殿本は長平を君平に作る。聚珍本東観記
もまた君平に作る。)馬況は河南太守、馬余は中塁校尉、馬員は増山連率
となった。)
馬援は年十二で親を亡くしたが、少時から大志があり、兄たちは特別に
目を掛けた。
馬援は斉詩を学んだが、心の中では章句に固執する事はできないと思って
おり、馬況にその気持ちを告げ、辺境で農耕・牧畜の仕事をしたいと願った。
(※東観記に曰く。馬援は斉詩を学び、潁川の満昌に師事した。(汲本は
満昌を蒲昌に作る。東観記も同じである。)また曰く。馬援は馬況が外に
出て河南太守となり、二人の兄が京師で役人となり、家の仕事が十分に
行われていないのを見て、馬況に告げて辺境の郡で農耕・牧畜を行いたい
と言った。)
馬況は「お前は大才の持ち主だ。きっと晩成するだろう。良工は人に技を
見せびらかさないものだ。お前も上辺を飾らずに思い通りにやるが良い。」
と言った。
馬況が死ぬと、馬援は喪に服し、年が終わるまで墓を離れず、後に残された
兄嫁を敬って冠をつけず、家にもに入らなかった。
その後、郡の督郵となって囚人を護送して司命府(裁判所)に至ったが、
その囚人は重罪であったので馬援は哀れんで逃がしてやり、(自分も)
遂に北地郡に逃亡した。(※王莽は司命官を置いて、上公以下全ての罪を
取り調べさせた。)
恩赦に遭い、(北地に)留まり牧畜を行った。馬援に帰属する者が多く
あり、遂に数百家を従えるようになった。(※続漢書に曰く。馬援は北地
の任氏の下を訪れて牧畜を行った。馬援の祖父の馬賓以来、馬氏は天水に
身を寄せており、父の馬仲もまたかつて牧師令であった。この時、兄の
馬員は護苑使者となっており、旧知や賓客は皆馬援を頼った。)
やがて、馬援は隴・漢の地を旅したが、常に客人に向かい、「丈夫たる者
は志を遂げるに当たり、困難に対して益々勇敢であり、老いて益々盛んで
なくてはならない。」と語った。
そして、あちこちで農耕牧畜を行い、牛・馬・羊数千頭・穀物数万斛を
有するようになった。
だが、しばらくすると馬援はため息を吐き、「およそ財産を増やしたら施し
を行う事が大切だ。そうでなければ銭の虜となるだけである。」と言い、
財産を悉く兄弟・旧知に分け与え、自分自身は羊の毛衣と皮の袴を身に
着けた。
王莽の末に四方に挙兵する者が現れると、王莽の従弟の衛将軍の王林は各地
から広く勇士・俊才を招き、馬援及び同県の原渉を召し寄せ、掾として王莽
に推薦した。(※原渉は字を巨先というと前書に見える。)
王莽は原渉を鎮戎の大尹に、馬援を新成の大尹に任命した。(※王莽は天水
を鎮戎と改め、太守を大尹と改めた。また漢中を新成と改めた。)
王莽が滅んだ時、馬援の兄の馬員は増山の連率であったが、馬援とともに
郡を離れ、涼州に避難した。(※王莽は上郡を増山と改めた。連率もまた
太守の事である。王莽の法によれば、郡を掌る者の爵位が公ならば牧、侯
ならば卒、伯ならば連率と呼び、爵位のない者は尹と呼んだ。)
世祖(光武帝)が皇帝の位に即くと、馬員は早速洛陽に上って謁見した。
帝は馬員を郡に戻した。(馬員は)在官のまま死んだ。
そこで馬援は西州(涼州)に留まった。(当時涼州に割拠していた)隗囂は
馬援を大変重んじ、綏徳将軍に任じ、ともに策を謀った。
この時、公孫述が蜀で皇帝を称していた。隗囂は馬援を遣わしてその様子を
見に行かせた。
馬援は公孫述と同郷で昔から仲が良かったので、蜀に着いたら手を握って以前
のように喜んで迎えてくれるだろうと思っていた。
しかし、公孫述は衛兵をずらりと並べ、馬援をすぐに入れようとせず、公拝の
礼が終った後、退出して館に入るように言い、馬援の為に都布の単衣・交譲の
冠を整え、百官を宗廟の中に集め、馬援を旧交の席次に立たせた。(※東観記
は都布を荅布に作る。史記には『荅布十匹』とある。前書の音義に曰く。荅布
は白い重ねた布である。何承天の纂文に曰く。都致・錯履・無極は皆布の名で
ある。方言に曰く。禅衣は江淮・南楚の地ではこれを[楪【左ころもへん】]
という。関の東西ではこれを禅衣という。)
公孫述は鸞旗(鈴の付いた旗)・旄騎(旗飾りを付けた騎馬)を並べ、先払い
の後に車に乗り、声折(天子の到着を告げる声?)の後に宗廟に入った。
百官を饗応するやり方は大変豪勢であった。(※鸞旗・旄騎の解は公孫述伝
に見える。声折とは曲折しているような声を出して敬意を示すものである。)
公孫述は馬援を侯に封じ、大将軍の位を与えようと言った。賓客たちは皆、
馬援が蜀に留まる事を願った。
馬援は心中「天下の雌雄は未だに決していない。なのに公孫述は国士を吐哺
走迎(食べていた物を吐き出して走って出迎える)してともに事を謀ろうと
せず、却って身辺を飾り立てて木偶人形のようである。これではどうして
天下の士を長く留めて置く事ができるだろうか。」と思い、公孫述の下を辞去
した。(※史記に曰く。周公は(子の)伯禽を戒め、「私は一度の洗髪で三度
髪を搾り、一度の食事で三度口の中の物を吐き出すが、それでもなお天下の士
の心を失う事を恐れているのだ。」と言った。)
馬援は戻ると、隗囂に「子陽(公孫述)は井底の蛙に過ぎません。(※公孫述
の志や考えが偏狭で、井戸の底の蛙のようであるという意味である。井底の蛙
については荘子に見える。)自分勝手に尊大に振る舞っています。東方(漢)
に意を通じるに越した事はございません。」と告げた。
建武四年(28)の冬、隗囂は馬援に洛陽に書を奉らせた。
馬援が到着すると、宣徳殿で引見を許された。帝は馬援を迎えると笑って
「卿は二帝の間を行き来している。今、人は卿を見て非常に恥ずかしく思うの
ではないか。」と言った。馬援は頓首し、「今の世は君主だけが臣下を選ぶ
のではございません。臣下もまた君主を選ぶのです。(※家語に曰く。君は
臣を選んでこれを任じる。臣もまた君を選んでこれに仕える。)臣と公孫述
は同県の出身で、幼い頃から仲が良かったのですが、臣が前に蜀に訪ねて
行った際、衛兵を挟んで対面してからやっと前に進ませました。今、私は
遠方から参りましたのに、陛下はどうして刺客や姦人でないと思われ、この
ように気軽にお会いになられたのでしょうか。」と答えた。(※東観記に曰く。
馬援が初めて訪ねてきた時、帝は宣徳殿の南の屋根の下にただ頭巾を被った
だけの姿で座っていた。故に気軽にと言ったのである。)
帝はまた笑って「卿は刺客などでなく、ただの説客だろうと思ったのだ。」
と言った。
馬援は「天下は覆り、功名を窺っている者は数え切れません。今、陛下を
拝見致しますと、度量が広く高祖と同じ長所をお持ちになり、自ずから真の
帝王でいらっしゃる事が分ります。」と述べた。
帝はこれを大変壮快に感じた。
馬援は帝が黎丘に行幸するのに随い、さらに東海まで供をした。
帝は都に帰ると、馬援を待詔(正式でない官)に任じ、太中大夫の来歙に節
を持たせ、馬援が西方の隴右に帰るのを送らせた。
隗囂は馬援と寝起きをともにし、(話が)東方の流言(情報)及ぶと、都に
おける得失を尋ねた。
馬援は隗囂に説いて言った。「朝廷に出向いた際、帝は引見した者数十人と
それぞれくつろいだ話を交えられました。(※東観記に曰く。合わせて十四人
を引見した。)それは夕刻から行われ明け方に及びました。また、帝は優れた
才能と勇略を備え、これに敵う者はおりません。また、胸襟を開いて本心を
お見せになります。隠す所が無く闊達で、君臣の義を弁えておられます。それ
はほぼ高帝(高祖)と同じ位です。経学に博く通じ、政事をよく理解している
点では前世に比較する者もございません。」
隗囂は「卿よ、ならば高帝はどうか。」と尋ねた。
馬援は「及びません。高帝は可も無く不可もございません。(※これは孔子
が自分の行った事に対して言った言葉である。)今上陛下は好んで官吏の仕事
を行われます。行動は節度に従っておられ、また飲酒を喜ばれません。」と
答えた。隗囂は本心では快く思わなかったが、「卿の言に従うなら、却って
勝っているという事か。」と言った。だが、元々馬援を信用していたので、
結局長子の隗恂を人質として洛陽に送る事にした。
馬援は一族郎党を率い、隗恂に随行して洛陽に戻った。
洛陽に数ヶ月滞在したが、特に職務を与えられる事はなかった。
馬援は三輔の地が広くて肥沃な土地であったので、連れて来た賓客が多いと
いう理由から、上書して林苑に屯田する事を求めた。帝はこれを許した。
その頃、隗囂は王元の讒言により馬援を殊更に疑うようになった。
馬援は度々手紙を送り、隗囂に帰順を勧めた。
隗囂は馬援が自分に背いたと怨んでいたが、手紙を見て怒りを強めた。
その後、遂に兵を発して漢に対抗した。馬援は上疏し、「臣援は身を聖朝に
帰して陛下に仕えたいと思っておりますが、公輔(三公)には一言も推薦して
頂けず、左右にも私の意見を容れる方はおりません。臣が自ら申し上げなくて
は陛下は何によってこれをお聞きになる事ができるでしょうか。前にいても人
に重んじられず、後ろにいても重んじられず、人と恨み合い人の憂いとなる事
は臣の恥じる所であり、故に敢えて罪に問われる危険を冒して真実を述べたい
と存じます。臣と隗囂は真の友人でございました。初め、隗囂は臣を東に遣し、
『漢に付きたいと思う。君が行って様子を見て来て欲しい。君の目に良いと
映ったのなら私も心を決めよう。』と申しました。臣は帰ると、心に思ったまま
を報告し、本心から隗囂を善に導こうと致しました。義に背いて偽りを申したり
は致しませんでした。しかしながら、隗囂は邪悪な心を懐き、盗人が家の主人を
憎むように陛下を憎むようになり、その恨みは臣の身に返ってきました。(※
左伝に曰く。晋の伯宗の妻は『盗人は家の主人を憎み、民はお上を憎みます。』
と言った。成・十五)臣はこれ以上は申し上げたくはございませんし、もう
お聞かせする事もございません。願わくば、行在所に参上し、隗囂を滅す方策
を述べる事をお聞き届け下さい。胸中を空にして愚策を申し上げる事ができた
なら、引退して田畑を耕し、一生を終える事となっても恨む事はございません。」
と述べた。
帝は直ちに馬援を召し寄せて事を計り、馬援は事細かに策を進言した。
そこで、帝は馬援に突騎五千を率いさせ、往来して隗囂の将の高峻・任禹らを
説得させ、下は羌の豪帥に及ぶまで、利害を説いて隗囂から離反させた。
馬援はまた隗囂を説得させようとし、隗囂の部将の楊広に書を送って言った。
「春卿(楊広)殿、お変わり無いでしょうか。以前冀南(天水郡)で別れて
以来、音沙汰も無く寂しく思っております。私は最近長安に戻って来ました。
そこで、上林に留まって情勢を窺いますに、四海は既に定まって民は等しく
漢に心を寄せています。それなのに季孟殿(隗囂)は関を閉ざして敵対し、
漢に背いて天下の非難の標的となってしまいました。私が常に怖れているのは、
海内が怒って互いに引き裂き合う事です。故に書を送って本心から心配し、
方策を申し上げております。季孟殿は罪を私に帰し、王游翁の邪悪な諂いの
言葉を取り上げ、『函谷関以西は一気に平定できる。』と言っていると聞き
ましたが、今の状況を見るに、どうでしょうか。(※游翁は王元の字である。
(隗囂伝は王元の字を恵孟とする。)私は最近河内を通り、伯春殿(隗囂
の子隗恂)を訪ねました。その召使いの吉は西から帰って来て、伯春殿の
幼弟の仲舒殿は、吉を見ると伯春殿は変わりないかと尋ねられましたが、
遂に何も言う事ができず、(仲舒殿は)朝夕に号泣して塵の中を転がり回って
いたと報告したのを見ました。また吉はその家の悲しみの様を伝えました
が、言葉で表す事ができない程でした。『仇は刺し殺さなければならない。
謗るだけでは駄目だ。』と申しますが、私はこの話を聞いて知らぬうちに涙が
こぼれました。私は本より季孟殿の子を思う心が曾子・閔子騫(ともに孔子の
弟子)にも劣らぬ事を知っております。孝はその親に対する物ですが、親の
その子に対する慈愛も変わるはずがありません。子が三木に繋がれているのに
でたらめな行動をして、自ら羮(あつもの)を分かつような事は無いはずです。
(※三木とは手枷・足枷・首枷をいう。司馬遷は『赭(しゃ=赤色の罪人)の
着物を着せられ、三木に繋がれる。』と言った。羮を分かつとは楽羊(魏の武将。
自分の子を羮にされ、それを飲み干した人物。)の事である。解は公孫述伝に
見える。)季孟殿は平生、『兵を擁する理由は父母の国を保全して墳墓を守り
たいからである。』と言い、また『苟も士大夫を厚く遇して一生を終えたい
ものだ。』とも言っておられました。しかしながら、今は保全しようとしていた
物はまさに滅びようとし、守ろうとしていた物はまさに壊されようとしており、
厚く遇しようとしていた者には却って冷遇されています。季孟殿はかつて子陽
(公孫述)につく事を恥じ、その爵を受けませんでしたが、今頃になって公孫述
と誼みを通じようとしておられます。これでは面目保つ事は困難ではないでしょう
か。もしもまた重ねて人質を送るならば、どうやって子の主給(天子からの俸禄?)
を得る事ができるでしょうか。かつて公孫述は王・宰相の待遇を以て季孟殿を待ち
受けていました。(※公孫述が隗囂を朔寧王に封じようとしていた事をいう。)
しかし、春卿殿はこれを拒絶させました。それなのに今、官を捨て更に頭を下げ
ながら、子供たちと一緒の飼い葉桶で肩を並べて馬草を食べながら、敵の朝廷に
身を置くのですか。男児は溺死するとも何かにすがって泳ぐ者ではありません。
今、国家は春卿殿を深く待ち望んでいます。牛孺卿(牛邯)に言い、年長の豪族
たちとともに季孟殿を説得して下さい。もし何か計画があって従わないのなら、
もちろん兵を率いて帰られるが宜しいでしょう。前に地図を開いて天下の郡国を
見たところ、百六の郡がありました。どうしてたった二郡で中国の百四郡に対抗
しようと望むのでしょうか。春卿殿が季孟殿に仕える事は外には君臣の義があり、
内には朋友の道があるでしょう。しかし、君臣というからには当然諫言すべきで
あり、朋友というからには当然切磋(忠言)すべきです。それができないと知り
ながら、どうしてただくたびれた舌を動かし、手をこまねいて他の者たちに従う
のでしょうか。今のうちに事を計るのならまだいいでしょう。しかし、今を過ぎ
れば、そうしたいと望んでも成果は少なくなるでしょう。また、来君叔(来歙)
は天下の信士で、朝廷はその意志を重んじております。その心は雄々しく、常に
ただ一人西州の為を思って発言しております。私が考えるに、朝廷は信を立てる
事を最上としており、必ず約束を違えたりはしません。私はここに留まっては
いられません。早急にご返事下さい。」
楊広は遂に返答しなかった。
八年(32)、帝は自ら西に親征して隗囂を討ち、漆に至ったが、諸将の多く
は皇帝の軍隊が軽々しく険阻な地に深入りする事は良くないと考え、なかなか
作戦が決まらずにいた。(※漆県は扶風郡に属す。)
帝が馬援を呼び出すと、夜になってやって来た。帝は大いに喜んで馬援を
部屋に引き入れ、細々と多くの事を話し合って作戦を立てた。
馬援は「隗囂の軍には土崩の勢いがあり、兵を進めれば味方は必ず敗れる
でしょう。」と情勢を説明した。また、帝の前に米粒を播いて山や谷の形を
作り、地形を説明して軍の進むべき道の様子を示し、曲折を細かく分析し、
明らかに理解できるようにした。帝は「敵は我が目の前にいる。」と言った。
次の朝に軍を第一(地名)に進め、隗囂の軍は大崩れとなった。(※第一の解
は竇融伝に見える。)
九年(33)(帝は)馬援を太中大夫に任命した。
(馬援は)来歙を補佐して諸将を監督し、涼州を平定した。
王莽の末期から西羌が辺境に侵入するようになり、遂に国内に侵入して金城郡
の県の多くが西羌に占領された。
来歙は「隴西は西羌に侵略されました。馬援でなければ平定できる者はいない
でしょう。」と上奏した。
十一年(35)の夏、帝は璽書を下し、馬援を隴西の太守に任命した。馬援は
直ちに歩騎三千人を発し、臨[シ兆]で先零の羌(羌の一種)を撃ち破り、首級
数百を挙げ、牛・馬・羊一万余頭を獲得した。辺境を守っていた種の羌八千
余人が馬援の下に赴いて投降した。
その後、羌族の諸種数万人が集団で略奪を働いたので、馬援は浩<亠興且>
(こうぼん)の隘路でこれを防いだ。(※浩<亠興且>県は金城郡に属す。
浩は川の名で、<亠興且>は水流が山門に挟まれ、両岸が高く門のように
なっている事を指す。詩に曰く。「鳧(まがも)やかもめが<亠興且>に
いる。」今(唐代)、俗にこの川を閤門河というが、これが縮まっただけで
あろう。)
馬援が揚武将軍の馬成と羌を攻撃すると、羌は妻子・輜重を率いて允吾谷に
移動した。馬援は間道から潜行し、不意を突いてその陣営を襲った。
羌は大いに驚いて潰走し、遠方の唐翼谷に陣を移した。馬援がまたこれを
追討すると、羌は精兵を率いて北山の上に集結した。馬援は山に向かって
陣を布き、数百騎を分かって敵の後ろを襲わせ、夜陰に乗じて火を放ち、鼓
を打ち鳴らした。敵は大いに慌てふためき、馬援は合わせて首級千余を挙げた
が、兵が少なかったので敵を追い詰める事はできず、羌の兵糧・家畜を収めて
帰還した。
馬援はこの度の戦闘で矢に当って脛(すね)を貫かれた。帝は璽書を下して
これを労り、牛・羊数千頭を賜わった。馬援はそれらを全部賓客たちに分け
与えた。
その頃、朝臣たちは金城・破羌の西が遠く離れており、羌の侵入が多い事
からこれらを放棄しようと議った。(※破羌県は金城郡に属す。)そこで、
馬援は上奏し、「破羌以西は城も多く、堅固で守る事は容易く、その土は
豊かに肥え、灌漑の流通もございます。もし羌を湟中に居着かせたなら、
たちまち害となって不穏な事態を招くでしょう。(※湟は川の名である。
前書によれば、金城の臨羌県の東に源を発し、允吾に至って黄河に合流
する。)放棄すべきではございません。」と言った。
帝はこれを尤もだと思い、武威太守に詔を下し、金城の民全てを帰還させ、
三千余口を各々以前住んでいた場所に戻らせた。(※東観記に曰く。武威
太守は梁統である。金城の客民は武威郡にいた。)馬援は更に民衆の為に
長吏を置くように上奏し、城郭を修理して塢侯(物見櫓)を建て、新たに
水田を作って農耕牧畜に励ませたので、郡中の人々は農作業を楽しんだ。
また、羌の豪帥の楊封を遣わし、塞外の羌を説得させた。羌は皆やって来て、
漢と和親した。また武都の<氏_>人で公孫述に背いて来降した者は皆、
その侯・王・君・長の位に復させ、それぞれの印綬を賜るように上奏した。
帝は馬援の要請を悉く聞き届けた。
(戦乱が収まった後に)馬成の軍は解散した。
十三年(37)、武都の参狼の羌が塞外の諸種の羌族と略奪を働いて長吏を
殺害した。馬援は四千余人の兵士を率いてこれを撃ち、<氏_>道に至った。
(※<氏_>道県は隴西郡に属す。)
羌は山上に陣取っていたので、馬援の軍は要害の地に陣を布き、敵の水や食糧
の草を奪って持久戦に持ち込んだ。羌は遂に困窮し、豪帥ら数十万戸は国境の
外に逃亡した。
諸種の羌一万余人は悉く降伏し、ここにおいて隴右は平静となった。
馬援は努めて寛大さと恩信を以て下の者を遇し、官吏に職務を任せ、自分は
全体をを統轄するだけであった。賓客・旧知が毎日馬援の家の門を賑わして
いた。
役人たちが庶民の問題を申し立てると、馬援は「それは丞や掾の仕事だ。
どうして相の手を煩わせる事があろうか。(※続漢志に曰く。郡が国境の守備
に就く時には丞を長吏とし、諸曹の掾史を置いた。)特に老人や子供を大切に
して楽に暮らせるようにせよ。もし豪族が庶民を苦しめたり、悪賢い羌が郡に
に背いたなら、それこそが太守の仕事である。」と言った。
かつて近隣の県に以前仇討ちをした者があった。役人も民衆も驚き、「羌が
反乱を起こした。」と言い、皆逃げて城郭の中に入った。狄道県長が郡城
の門にやって来て、城を閉ざして兵を発するように要請した。(※狄道県は
隴西郡に属す。)
馬援はその時、賓客と酒を飲んでいたが、大いに笑って「焼羌が何でまた私
に背くものか。狄道県長に帰って町を守るように諭すのだ。怖くてたまらぬ
者は寝台の下に寝るが良かろう。」と言った。
その後しばらくして混乱は収まり、郡中は馬援に信服した。
職務を行う事六年、馬援は召還されて入朝し、虎賁中郎将となった。
前に馬援が隴西にいた頃、上書して昔のように五銖銭を鋳造するべきだと
述べた。事は三府(三公の役所)に下されて議論されたが、三府はまだ鋳造
を許すべきではないと上奏し、鋳造の事は遂に据え置かれる事となった。
馬援は中央に帰還すると、公府に赴いて以前の上奏への十余項目の反論の
提出を求め、その文書に従って解釈を行い、更めて具さに上奏を行った。
(※東観記に曰く。合わせて十三の反論があったが、馬援はその内の十一に
ついて問題を解消し、それを書き表してを上奏した。)帝はこれに従い、天下
はその利便の恩恵を受けた。
馬援は都に戻ってから、度々帝に召された。
馬援は髭と髪がつやつやとしていて、眉目は絵に描いたようであった。(※
東観記に曰く。馬援は身長七尺三寸。髪と肌はつやつやとしており、眉目・
容貌は絵に描いたようであった。)人との応対はゆったりとし、好んで前世
の事柄を話した。話は三輔の長者から、下は田舎の少年にまで及んだが、
皆聞くに値する物であった。皇太子・諸王で馬援の話を聞く者で耳を傾けて
退屈を忘れぬ者は無かった。
また兵法にも通じており、帝は常に「伏波(馬援)が兵を論じて計略を
立てる度に私の思っている所と一致していた。未だかつて取り上げぬ事は
無かった。」と語った。
以前、巻の人維は妖言を行って神と称し、数百人の弟子を集めていたが、
罪に触れて誅殺された。(※巻県は河南郡に属す。)その弟子の李広らは
維は神となったのであり、死んではいないと言って民衆を誑かした。
十七年(41)、遂に李広らは徒党を組んで皖城を攻め落とし、皖侯の劉閔
を殺した。(※皖県は廬江郡に属す。)李広は自ら南岳太師と称した。
帝は謁者の張宗を遣わし、兵数千人を率いてこれを討たせたが、また李広ら
に敗れた。そこで、帝は馬援に諸郡の兵一万余人を発させ、(馬援は)李広
らを撃ち破り、これを斬った。
また、交阯の女子徴側及び妹の徴弐が反乱を起こした。(※徴側は
<米鹿>[シ令](びれい)県の[各隹]将の娘で朱鳶(しゅえん)の人詩索
の妻である。大変勇敢な性格で、交阯太守の蘇定が法によりこれを捕らえる
と、徴側は恨み怒って反乱を起こした。(沈欽韓は[各隹]は駱に作るべきで
あるとし、賈損之のいう「駱越之民」であり、前書の<門虫>越伝に「甌駱
將左黄同」とあると言う。 )
徴側は郡の城を攻め落とし、九真・日南・合浦の蛮夷は皆これに応じ、嶺外
の六十余城を侵略した。徴側は自立して王となった。
そこで、帝は璽書を下して馬援を伏波将軍に任命した。(※東観記に曰く。
馬援は上書し、「臣が仮に授けられました伏波将軍の印の文字は伏の字が
犬になっております。外に目を向ければ、城皋県令の印は白の下に羊、丞の
印は四の下に羊、尉の印は白の下に人、人の下に羊となっており、一県の
長吏の印の文字が同じではなく、天下に誤る者が多い事が気遣われます。
符・印は信を示す物であり、全て同一にするのが宜しいでしょう。」と
言い、古文字に通じた者を推薦した。事は大司空に下され、郡国の印章は
正された。上奏は理に適った物であった。)
馬援は扶楽侯の劉隆を副将とし、楼舩将軍の段志らを率い、南方の交阯の
反乱軍を撃った。(※扶楽県は九真郡に属す。(袁宏の後漢紀は段志を殷志
に作る。)
合浦に到着した際、段志は病気で死に、馬援にその兵を合わせて率いる
ように詔が下された。
馬援は海沿いに軍を進め、さらに山に沿って草を刈りながら千余里を進んだ。
十八年(42)の春、馬援の軍は浪泊(地名)の付近で賊と戦って破り、数千
の首級を挙げ、一万余人を降伏させた。馬援は徴側・徴弐を追撃して禁谿
に至り、度々これを破り、賊は遂に逃げ散った。(水経注及び越志はともに
禁谿を金谿に作る。) 
翌年の正月、徴側・徴弐を捕らえて斬り、首を洛陽に送った。(※越志に
曰く。徴側は兵を起こすと、<米鹿>[シ令]県に都を置いた。馬援がこれを
討つに及んで、逃げて金溪穴の中に入り、二年目に捕らえられた。(集解は
沈欽韓の説を引き、穴は究に作るべきであり、水経の鬱水注に竺枝の扶南記
を引き、山溪の瀬中はこれを究というとあり、また葉楡水注に馬援は兵を
率いて徴側を討ち、徴側は金溪究の中に逃げ込んだとあるとする。)
帝は馬援を新息侯に封じ、食邑を三千戸とした。そこで、馬援は牛を殺して
酒を用意して軍士を労い、くつろぎながら属官に言った。「私の従弟の
少游は常に私が意気盛んで大志を懐いている事を哀れみ、士たる者が世に
生まれたら、衣食がほどよく足り、沢を行く車に乗り降りし、ゆっくりと
馬を御し、郡の掾となって郷里の墳墓を守り、善人と呼ばれる事を取るべき
であり、余計な物を求めるならば、ただ自ら苦しむだけだと言っていた。
(※周礼に曰く。沢を行く者は轂(こしき=車輪の中心)の短い物を望み、
山を行く者は轂の長い物を望む。轂が短ければ走りやすく、長ければ安定する
のである。)私が浪泊の西に在って敵がまだ滅びずにいた時、下には水たまり
が、上には霧があり、毒気が充満していた。空を飛んでいる鳶がばたばたと
水中に落ちるのを見て、寝ながら少游がいつも言っていた言葉を思い出し、
どうして分を越えた成功を得る事ができるだろうかと思った。しかし今、
軍士たちの力によって大恩を蒙り、僭越ながら諸君に先んじて金紫を帯びる
身となる事ができた。喜ぶと同時に恥じる次第である。」役人も兵士も皆平伏
し、万歳を唱えた。
馬援は大小二千余艘の楼船・戦士二万余人を率いて九真の賊及び徴側の残党
の都羊らを討ち、無功より居風に至った。(※無功・居風はともに九真郡に
属す。(光武帝紀は都羊を都陽に作る。陽と羊は古字は通じる。)合わせて
五千余人を斬首・捕虜とし、[山喬]南は悉く平定された。(※広州記に曰く。
馬援は交阯に至り、銅柱を立て漢の極界とした。)
馬援は「西于県は戸数が三万二千ございますが、国境は県の中央から千余里
も離れた所にございます。(※西于県は交阯郡に属す。)分割して封渓・
望海の二県とされますように。」と上奏し、これを許された。
馬援が通った所は直ちに郡県となって城郭が作られ、水路を掘って灌漑が
行われ、住民の利便が計られた。また、越の法と漢の法が異なる点、十余
項目を挙げてこれを上奏し、越人と越の旧制を守る事を誓った。
これより駱越は馬将軍の故事を奉じて事を行った。(※駱は越の別名である。)
二十年(44)の秋、凱旋して都に帰った。軍吏で病気で死んだ者は十人
に四・五であった。
帝は馬援に兵車一台を賜わり、朝見する際の位は九卿に次ぐ者とされた。
馬援は乗馬を好み、名馬を見分ける事が上手かった。駱越の銅鼓を手に
入れると、溶かして馬の見本を鋳させた。(※裴氏の広州記に曰く。
俚[撩【左けものへん】](南方の蛮夷の名)は銅を鋳て鼓を作り、ただ
高くて大きい事を貴ぶ。表面の広さは一丈余、出来上がると庭に懸け、
夜明けに酒を整えて同類を招き、大勢の来客がその門に満ちる。豊かな
豪族の子女は金銀で大きな釵(かんざし)を作り、それを持って鼓を叩き、
叩き終えると、主人の下に留まる。)
都に帰る際、馬援は上奏して言った。「天を行くには龍に勝る者は無く、
地を行くには馬に勝る者はございません。(※史記の平準書に曰く。天に
在っては龍に勝る者は無く、地に在っては馬に勝る者は無い。)馬は戦の
根本で、国にとっても重要な物でございます。平和な時には尊卑の序列を
明らかにし、変事がある時には遠近の難を救う事ができます。昔、騏驥が
いて一日に千里を走り、伯楽はこれを見て明らかに(名馬とする事に)
迷う事は無かったでしょう。(※伯楽は秦の穆公の時の馬相を観る名人で
あった。桓寛の塩鉄論に曰く。麒麟は塩車を引いて太行の坂で頭を垂れて
いたが、伯楽を見ると鼻息を荒くして長くいなないた。)近き世では西河
の子輿がおり、馬の観相に優れておりました。子輿は西河の儀長孺にその
法を伝え、長孺は茂陵の丁君都に伝え、君都は成紀の楊子阿に伝え、臣援
はかつて子阿に師事して相馬骨法を受け継ぎ、これを行って本当に成果が
ございました。臣は、伝え聞く事は自ら見るに及ばず、影を見る事はその
姿を見るには及ばないと愚考致します。今この名馬の特徴をを生きている
馬の姿で表そうとしますと、その骨相を備えた馬はなかなかおらず、また
それを後世に伝える事もできません。孝武皇帝の時によく馬相を観る達人
の東門京がおり、銅で馬の型を鋳て献上し、詔によりその馬は魯班門の外
に立てられ、魯班門を改めて金馬門と名付けました。(※東門京は東門が
姓、京が名である。)臣は謹んで儀氏の[革奇]中、帛氏の口歯、謝氏の
脣<[長久]耆>、丁氏の身中など数家の骨相を備えている事を以て名馬の
見本と致します。(※馬援の銅馬相法に曰く。水火ははっきりしているの
が良い。水火は鼻の両穴の間にある。上唇はきっと上がって四角なのが良く、
口の中は赤いのが良い。もし口の中に光沢があればその馬は千里の馬である。
頷の下は深いのが良く、下唇は緩やかなのが良い。牙(前歯?)は前に
向いているのが良く、(下顎の?)歯から一寸離れている時は四百里の馬
で、牙が剣のように尖っていれば千里の馬である。目は丸く潤っているの
が良い。腹は張りがあるのが良く、[月魚](目の白目)は小さいのが良く、
季助(?)は長いのが良く、懸薄は厚くて緩やかなのが良い。懸薄は股の
事である。腹の下は平たく膨らんでいるのが良く、汗溝(腋の下の溝)は
深く長いのが良く、膝本は隆起しているのが良く、肘腋(腋)は開いている
のが良く、膝は四角なのが良く、蹄は厚さ三寸で石のように硬いのが良い。)
馬の高さは三尺五寸、胴回りは四尺五寸でございます。」
詔が下され、(銅馬は)宣徳殿の下に置いて名馬の型とされた。
以前、馬援の軍が到着しようという時、旧知の人が多く出迎えに来た。
知謀で名を知られていた平陵の人孟冀は祝賀会の座で喜びの言葉を述べた。
馬援は孟冀に「私は貴方が正直な気持ちを言って下さる事を望んでおりま
したのに、他の大勢の者とお変わりになりませんな。昔、伏波将軍の路愽徳
が越の地に七郡を新たに置き、恩賞として食邑数百戸を与えられました。
(※漢書に曰く。南越を平定して、南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・
日南・朱崖・[イ・]耳(たんじ)の九郡を置いた。今ここに七郡というのは
前書と同じではない。)今、私は僅かの労により枉げて大県を賜りました。
功績は僅かであるのに恩賞は多大です。どうして長くこれを保つ事ができる
でしょう。先生、禍から身を守る方法はあるでしょうか。」と言った。
孟冀は「私は愚かなので考え及びません。」と答えた。
馬援は「今なお匈奴・烏桓は北方の辺境を侵しています。私は自らこれを
討つ事を願い出ようと思います。男児たる者は辺境の野に死なねばならず、
馬革で屍を包まれ、帰って葬られるだけです。どうして床について女子供の
介抱を受けていられましょうか。」と言った。孟冀は「実に烈士というのは
このような人をいうのでしょうな。」と答えた。
帰還してから一ヶ月余り後、匈奴・烏桓が扶風郡に侵入したので、馬援は
三輔の混乱と御陵に危険が迫っている事により、西に向かう事を願い出て
許された。
九月に京師に帰還してから、十二月には襄国に駐屯した。(※襄国は県の名
である。趙国に属す。)
帝は百官に詔を下し、祖道(送別の宴)を行った。
馬援は黄門郎の梁松・竇固に「およそ人は高い身分となったら遜るべきで
ある。もし卿らがまた賎しい身分に戻りたくないのなら、高い身分に在って
も堅く自分を律し、私の言葉を思い出す事だ。」と言った。
梁松は果たして後に驕り高ぶって災いを受け、竇固もまた最後には災いを
免れなかった。
翌年の秋、馬援は三千騎を率いて高柳(代郡)から出て、雁門・代郡・上谷
の塞を巡行した。烏桓の斥候が漢軍が来た事を報告したので、敵は遂に逃げ
去った。馬援は得る所無く引き返した。
馬援がかつて病気に罹った際、梁松が見舞いに来て一人病床に侍ったが、
馬援は別段感謝しなかった。梁松が帰った後、人々は「梁伯孫は帝の女婿
(舞陰公主の夫)で、朝廷でも尊重されている方です。(※梁松は舞陰公主
の婿となった。)公卿以下憚って謙らない者はありません。閣下は何故
お一人礼遇されないのでしょうか。」と尋ねた。
馬援は「私は梁松の父の友人である。(※梁松の父は梁統という。)いかに
身分が高くても、どうしてその序を崩す事ができるだろうか。」と答えた。
(※礼記に曰く。父の親しい友人に会う時には、進めと言われなければ
敢えて進まず、退けと言われなければ敢えて退かず、問われなければ敢えて
答えないものである。 鄭玄は父の同志を敬うのは父に仕えるのと同じで
あるとする。)梁松はこの事により馬援を恨んだ。
二十四年(48)、武威将軍の劉尚が武陵郡の五渓蛮を討ち、深入りして
戦死した。(※[麗おおざと]元の水経注に曰く。武陵には五渓があり、それ
ぞれ雄溪・[滿(左木)]溪・酉溪・[シ無]溪・辰溪といい、これらは悉く
蛮夷の住む所なので、五溪蛮というのである。皆、槃瓠(古代に犬戎の首を
獲った犬)の子孫である。土俗では雄を熊、[滿(左木)]を朗、[シ無]を武
に作る。(王先謙は、東観記は劉尚を劉禹に作るとする。)
そこで、馬援はまた出征を願い出た。
時に年六十二であり、帝はその老齢を哀れんで許さずにいた。馬援は自ら
願い出て、「臣は今なお甲を被り、馬に乗る事ができます。」と言った。
そこで、帝はこれを試させた。馬援は鞍に跨って辺りを見回し、まだ武将と
して使える事を示した。帝は笑って「矍鑠(かくしゃく)としているな。
この老人は。」と言い、遂に中郎将の馬武・耿舒・劉匡・孫永らを将とし、
十二郡の募兵及び刑を許された者四万余人を率いて五渓を征討させた。
馬援は夜に見送りの者たちと別れ、友人の謁者の杜[小音]に言った。(集解
は恵棟の説を引き、袁宏の後漢紀は杜[小音]を杜憶に作るとする。)「私は
厚恩を蒙り、余命も残り少なく、常に国事に死ぬ事ができぬ事を怖れていた。
今願いが叶って満足して瞑目する事ができる。ただ怖れるのは、権門の子弟
のある者は帝のお側に仕え、ある者は職に在るが、特に心を合わせる事が
困難な事である。それがただただ心配なのだ。」
翌年の春、軍は臨郷に到着した。(※東観記に曰く。二月に武陵の臨郷に
到着した。)賊が県に攻めて来ると、馬援はこれを迎え撃って破った。
合わせて二千余人斬首・捕虜とし、残りは皆竹林の中に逃げ込んだ。
最初、軍は下雋(長沙郡)に陣を布いていた。竹林には二つの入る道があり、
壺頭から追撃する場合は、道は近いが川の流れが急であり、充則(武陵郡)
から追撃する場合は、道は平坦だが遠くて輸送が困難であった。(※壺頭は
山の名である。武陵記に曰く。この山の頂は東海の方壺山とよく似ており、
神仙が多く集まって来る所であったので、壺頭山と名付けられた。)
帝は前から今回の遠征の成功に疑念を懐いていた。軍が到着すると、耿舒は
充則の道から進軍する事を望んだ。
馬援は日を無駄にして食糧を費やすよりも、壺頭山から進んで敵の喉首を
押さえるに越した事は無く、そうすれば充則の賊は自然と敗れるだろうと
考えて上表を行い、帝はその策に従った。
三月に軍を進めて壺頭に陣を布くと、賊は高地に陣取って狭い山道を守った。
馬援の軍の船は水が速くて川を上る事ができなかった。猛暑により兵士の
多くが疫病に罹って死に、馬援もまた病に冒された。
遂に困り果てて岸辺に穴を掘り、その中に入って暑気を避けた。(※武陵記
に曰く。壺頭山の付近に石窟があるが、これが馬援が掘らせた穴である。
穴の中には百斛船程の大きさの蛇がおり、馬援の霊であるといわれた。)
敵が高所に上って鼓を打って囃し立てる度に、馬援は足を引きずりながら
出て来てこれを見た。周りの者はその壮意を哀れみ、涙を流さぬ者は無かった。
耿舒は兄の好畤侯の耿<合廾>(こうえん)に手紙を送って言った。「以前、
私は上書して、『兵糧の輸送が困難であっても、先に充を撃てば、兵馬を
用いる事ができ、数万の軍士が先を争って奮い立つでしょう。』と申し上げ
ました。今、軍は壺頭山から遂に前進できず、大勢の兵士が鬱々たる心で
道半ばで死にましたが、実に痛惜すべき事です。前に臨郷に到着した際、
賊が無謀にも攻めて来ました。もし夜襲を掛けたなら、賊を全滅させる事が
できたでしょう。しかし、伏波将軍は西域の賈胡(胡人の商人)のように
一カ所に留まり、戦機を逸してしまいました。今、果たして兵は病気で苦し
んでおり、皆私の言った通りになりました。」
耿<合廾>は手紙を見て、この事を上奏した。帝はそこで虎賁中郎将の梁松
を早馬で遣わし、馬援を問責させ、代わりに軍を統率させた。
馬援が病死すると、梁松は元々馬援に不満を懐いていたので、馬援を他の
理由に託けて陥れた。帝は大いに怒り、馬援の新息侯の印綬を没収した。
馬援の兄の子の馬厳・馬敦はともに他人の欠点を指摘する事を好み、また
身分の賤しいやくざ者と付き合っていた。(※馬厳・馬敦はともに馬余の
子である。)
馬援は前に交阯にいた時、手紙を送ってこれを戒めて言った。
「お前たちが人の過失を聞く事を父母の名を聞くようにする事を望んで
いる。(父母の名を聞く事は屈辱に当たる為である。)(他人の過失は)
耳で聞いても、それを口にしてはならない。好んで人の長所短所を論じたり、
妄りに政治や法令の是非を語るのは、私が大いに憎むところである。たとえ
死んでも子孫がこういう事をしていた事を知られたくない。お前たちは私が
それを大変嫌っている事を知っている。また更めて言うのは、衿を緩めて
香袋を結ぶように、お前たちに父母の戒めを忘れさせまいと思うからである。
龍伯高は真心が厚く慎み深い性格で決して人の悪口を言わず、謙虚で倹約家
であり、心は清く公正で威厳があり、私はこの人を敬愛し尊重している。
お前たちがこの人を手本とする事を願う。杜季良は豪毅で侠心が厚く義を
好む性格で、人の憂いを己の憂いとして人の楽しみを己の楽しみとし、
清濁を分け隔てる事が無く、その父の喪に際して数郡の人間が揃って弔問に
訪れた。私はこの人も敬愛し尊重しているが、お前たちがこの人を手本と
する事は願わない。伯高を手本とすれば、上手く行かなくてもなお謹厳な
人間となる事ができる。いわゆる、『鵠(白鳥)を彫刻しようとすれば、
上手く行かなくても尚鶩(アヒル)に似る』という事だ。だが、季良を手本
とすれば、間違えるとただの軽薄な人間になってしまう。いわゆる、『虎を
描いて失敗し、却って狗に似る』という事だ。季良には今だに判断できない
所がある。郡の将が車から下りると、たちまち歯ぎしりをして(睨み付けて
いた)。州郡の人々はこれを噂し合い、私は常に冷や冷やしていた。この
事により子孫が手本とする事を願わないのである。」
杜季良は名を保という。京兆の人である。時に越騎司馬であった。(※
続漢書に曰く。越騎司馬は秩禄千石である。)
杜保の仇である人間が上書して杜保を訴え、「伏波将軍は(杜保の)行いが
浮薄である事、妄りに徒党を組んで民衆を惑わす事を以て万里の遠くに手紙
を送り、兄の子を戒められました。しかし、梁松・竇固の二人は通謀し、
偽りをでっち上げて伏波将軍を陥れ、国を乱そうとしたのでございます。」
と言った。
書は上奏され、帝は梁松・竇固を呼び出し、訴状と馬援の戒めの手紙を
見せ、二人が馬援を讒訴した事を責めた。梁松・竇固は叩頭して額から血
を流して謝罪し、やっと罪を許された。また、詔が下されて杜保は免官
された。
龍伯高は名を述という。これも京兆の人である。山都県長であったが、
馬援の手紙によって抜擢され、零陵太守に任命された。(※山都県は
南陽郡に属す。)
以前、馬援は交阯にいた頃、常に<十十意>苡(鳩麦)の実を食べていた。
(※神農本草経に曰く。<十十意>苡は味は甘く、僅かに冷たく、風ケイ
痺(風土病の一種?)に効き、気を下して筋骨の邪気を除き、長く服用すれ
ば、身は軽く気が充実する。)その実を食べると体が軽くなり、諸欲が抑え
られて瘴気に当たる事が無かった。南方の<十十意>苡の実は大きく、馬援
は持ち帰って栽培しようと思い、軍が帰還する際にこれを一つの車に載せた。
当時の人々はそれを南方の珍しい宝物だろうと思い、権力のある貴人たちは
皆欲しがった。
馬援はその頃、帝の寵愛が深かったので、帝にその事を知らせる者は無かった
が、馬援が死んだ後、「以前、馬援が車に載せて持ち帰ったのは皆、明珠・
文犀に相違ございません。(※文犀とは犀の角に色のついた模様がある物で
ある。)」と上書して伝えた者があった。
馬武と於陵侯の侯cらは揃ってその有様を上奏し、帝は益々怒りを強めた。
(※侯cは司徒の侯覇の子である。(於陵は済南国に属す。)
馬援の妻子は罪を怖れ、敢えて馬援の葬儀の為に以前の家に戻らず、僅かに
城の西の数畝の地を買い、仮に馬援を葬るだけとし、賓客・旧知の人間も
敢えて弔問に来る者は無かった。
馬厳が馬援の妻子とともに一本の縄に身を縛って宮城に参上し、馬援の罪状
を尋ねると、帝はそこで梁松の書を出して見せた。そこでやっと罪を受けた
理由を知り、妻子は上書して冤罪を訴えた。(妻子は)前後六度に渡って書
を奉り、その言葉は哀切を極めていた。その後、やっと馬援を埋葬する事を
許された。
また、前雲陽県令の同郡の朱勃が宮城に参上して上書して言った。「臣は、
聖王の政治は人の功績を忘れず、その一つの美点を取り上げ、全てを兼ね
備えている事を求めないと聞いております。(※周書に曰く。人の功を記し、
人の過ちを忘れる者を君とするのが良い。論語に曰く。周公は魯公に『大臣
に恨みを懐かせず、人に全てを備える事を求めてはならない。』と言った。)
故に高祖は[萠リ]通を赦し、田横を王の礼をもって葬らせ、大臣たちは皆、
高祖のなさる事を疑いませんでした。(※[萠リ]通は韓信に説いて漢に背か
せた。高祖は[萠リ]通を呼び出してやって来させると、許して誅殺しな
かった。田横は初め斉王を自称していた。漢が天下を平定しても、田横は
なお五百人とともに海島に立て籠もっていた。高祖が田横を追討すると、
田横は自殺したので、王の礼でこれを葬った。二つの話はともに前書に
見える。)『大将が外に在り、内に讒言があれば、僅かな過ちを取り上げ
られ、大功を成し遂げる事ができない。』と申します。正しく国を治めて
行く為には、これは慎まねばならない事でございます。そのせいで章邯は
讒言を怖れて楚に逃亡し、燕の将は讒言されて聊に籠もり、国に帰りません
でした。(※章邯は秦の将軍である。咸陽に人を遣わし、援軍の要請を
したが、趙高は帝に会わせず、却って疑いを懐いた。使者が帰って報告する
と、章邯は趙高の讒言を怖れ、遂に楚に降った。史記に曰く。燕の将軍が
聊城を攻め落とすと、ある者がこれを燕に讒言した。燕の将軍は誅殺を
怖れて聊城に立て籠もり、敢えて帰還しなかった。)どうしてそのような
下らない策略に乗せられて良いものでしょうか。巧言により同朋が傷つけ
られる事は悼ましい事でございます。窺い見ますに、元の伏波将軍、新息侯
馬援は西州より抜擢され、帝の正義を敬慕し、険しい土地に万死の危険を
冒して戦いました。しかし、権門の方々の間で孤立し、一言も弁明して
くれる者がおりませんでした。深淵に飛び込み、虎口に入る危険を冒し
ながら、どうして保身の計を顧みましょうか。(※戦国策に曰く。魏の
安釐王(あんりおう)が秦を畏れて入朝しようとしたところ、周[言斤]は
これを止めた。王は『許綰は私に誓い、「もし、入朝してお帰りになれ
なければ、王に首を差し上げましょう。」と言ったのだ。』と言った。
周[言斤]は『今、誰かが臣に、「深さも分からぬ泉に入ったら、鼠の首を
差し上げよう。」と言ったとしたら、それを受けても良いでしょうか。
許綰の首は鼠の首のような物です。王を何をするか分からない秦の擒とし、
その代わりに首を差し出すと言っているのです。密かに王の為にこれを取り
ません。』と答えた。司馬遷の書に曰く。『虎の口に餌を与えようとして
いる。』また曰く。『人臣は万死を冒して一生の計を顧みず、公家の難に
赴く。』これは馬援が隗囂に使いした事をいう。)七郡の使が重要であるの
を自覚するとも、どうして封侯の福を求めましょうか。建武八年(32)に
陛下は西の隗囂をお討ちになりましたが、国家のも定まらず、多くの軍も
まだ集まらないうちに、馬援は策を進言し、遂に西州を平定致しました。
また、呉漢殿が隴より下るに及んで、冀の道が断絶しましたが、ただ一人国
の為に狄道を堅守致しました。兵士も民衆も飢え疲れて命もまさに尽きよう
としておりましたが、馬援は詔を奉じて西に赴き、辺境の民を鎮撫致し、
豪傑を招き集め、羌戎を説得し、謀り事は泉の湧き出るが如く、その勢いは
転がる石の如くでございました。(※孫子に曰く。戦は丸い石が万仞の山を
転がるような勢いで行う物である。)遂に差し迫った危険を救い、落城寸前
の城を守り通し、兵は無事に進む事ができ、敵の物資を奪って食糧に充て、
隴・冀を平定して一人空いた郡の守備に就き、兵を動しては功績があり、
軍を進めてはたちまち勝利を収めました。先零の羌を滅ぼす為に山谷に入り、
力戦して流れ矢に脛を貫かれた事もございました。また交阯に出征した際、
その風土は瘴気が多く、馬援は妻子と生き別れとなろうとも、後悔の心を
持たず、遂に徴側を討ち果たし、交州を平定致しました。先頃はまた南に
出征し、たちどころに臨郷を陥落させました。軍は既に手柄も立てており
ましたのに、戦が終わらないうちに亡くなりました。軍士が病に倒れる中、
馬援は一人生き延びようとはしませんでした。戦という物は長い時間を
掛けてやっと功を遂げられる事もあれば、急ぎすぎて負ける事もございます。
深入りして敵を討っても必ず勝利したという確証は無く、軍を進めずにいて
必ずしも敵に敗れるという事ではございません。人の情としてどうして絶地
に長く留まり、生きて帰れぬ事を喜ぶでしょうか。思えば、馬援は朝廷に
仕える事二十三年、北は塞漠に出撃し、南は長江を渡り、害気に犯されて
戦の最中に倒れて死に、名は抹消され、爵位は絶たれ、領地を子孫に伝える
事もできませんでした。海内は馬援の過ちを知らず、巷には未だ馬援の悪い
噂を耳にした者もございませんでしたが、遂に三夫の言によって不当に讒言
を蒙りました。(※韓子に曰く。<广龍>共は魏の太子とともに邯鄲で人質
となった。<广龍>共が魏王に『今、一人が市に虎がいると言えば、お信じ
になりますか。』と尋ねると、王は『いや。』と答えた。『二人が言えば、
お信じになりますか。』と尋ねると、王はまた『いや。』と答えた。『三人
が言えば、お信じになりますか。』と尋ねると、王は『信じるだろう。』と
答えた。<广龍>共は『市に虎などいない事は明白ですのに、三人が言えば、
市に虎がいるとお信じになります。今、邯鄲と魏との距離は市よりもはるか
に遠く、臣を謗る者は三人に止まりません。王よ、これを良くお考え下さい。』
と言った。)家族たちは門を閉ざして墓に参る事もできず、恨みや仲違い
が生まれ、一族の者は怖れを懐いております。死者は自ら参内する事ができず、
生者で訴えを起こす者もございません。臣は密かにこの事に心を傷めており
ました。明君は恩賞を行うのに手厚く、刑を用いるのに控え目であると申し
ます。高祖はかつて陳平に金四万斤を与えて楚軍に工作を行わせられ、その
使い道をお尋ねになりませんでした。それなのに陛下はどうして銭穀の事で
疑いをお持ちになるのでしょうか。昔、孔父(孔子)程の忠心の持ち主でも、
讒言をを免れる事ができず、鄒陽の悲しむ所となりました。(※史記の鄒陽伝
に曰く。昔、魯は季孫氏の言葉を聞いて、孔子を追放し、宋は子罕の計を
信じて墨子を捕らえた。孔子・墨子の弁舌を以てしても讒言を免れる事は
できなかったのである。)詩にも『あの讒言を行った者を犲虎に投げ与えよ。
犲虎が食べなかったなら、地に投げ与えよ。地も受けなかったなら、天に
投げ与えよ。』と申します。(※詩の小雅の巷伯篇の言葉である。)これは
天にその悪を裁かせようとした物でございます。陛下には豎儒(つまらない
学者)の言葉を心に留められ、功臣に黄泉で恨みを懐かせるような事を無く
されますように。(※高祖は『豎儒が儂の事業を失敗させるところであった。』
と言った。)臣は、春秋の義においては、罪は功によって除かれ、聖王の礼
においては、臣には五つの義があったと聞いております。(※公羊伝に曰く。
夏に項を滅ぼした。誰がこれを滅ぼしたのか。斉がこれを滅ぼしたのである。
何故斉が滅ぼしたと言わないのか。それは桓公を憚ったからである。桓公は
絶えようとしていた者を継がせ、亡びようとしていた者を存立した功績が
あったので、君子はこれを憚ったのである。礼記に曰く。聖王が祀りを定める
には、法により人に施す事があればこれを祀り、命を懸けて事に勤める事が
あればこれを祀り、労により国を定める事があればこれを祀り、大災を防ぐ
事ができればこれを祀り、大患を防ぐ事ができればこれを祀るのである。)
馬援は、いわゆる命を懸けて事を勤めた者でございましょう。願わくば、
公卿に事を下され、馬援の功罪を問わせ、その後を断つべきか継がせる
べきかを明らかにし、海内の望みに従われますように。臣は年既に六十、
日頃は田舎で隠居している身でございますが、密かに欒布が彭越の為に
哭した義に感じ、悲憤を敢えてさらけ出し、宮殿の下に震えおののいて
おります。(※前書に曰く。彭越は梁王である。欒布は梁の大夫で、斉に
使いした。彭越は謀反を起こしたとして洛陽に首を晒された。首を収めたり
注視する者は捕らえるようにと詔が下された。欒布は帰還すると、事を彭越
の首の下で報告し、祠を作って彭越の為に哭した。)」
書は上奏され、朱勃は郷里に帰った。
朱勃は字を叔陽という。年十二でよく詩・書を誦んじる事ができ、よく
馬援の兄の馬況を訪ねて来た。朱勃は方領(学者の服)を着て規則正しく
歩く事ができ、言葉使いが雅やかであった。(※続漢書に曰く。朱勃は
韓詩を説くのに長じていた。前書の音義に曰く。方領は首の下に四角く衿を
施した物で、学者の服である。矩歩は身のこなしが規則正しい事をいう。)
一方、馬援は少ししか書を知らず、ただこれをぼんやりと眺めていた。馬況
はその心中を見抜くと、自ら酒を酌んで馬援を慰め、「朱勃は小器速成なの
だ。その智はたかが知れている。結局はお前に従って学ぶようになるだろう。
心配するな。」と言った。
朱勃がまだ十二歳にもならないうち、右扶風の太守は試みに[シ胃]城の宰
(長官)を代行させた。(※試みに職務を代行した者は一年して本官となり、
その俸禄の全部を与えられる。)だが、馬援が将軍となって侯に封じられた
時、朱勃の官位は県令に過ぎなかった。馬援は後に高い身分となっても常に
旧恩を忘れない待遇をしたが、朱勃に対してはこれを卑しんで侮った。それ
でも朱勃はいよいよ親愛の念をもって馬援と接した。馬援が讒言に遭ったの
に対し、朱勃は晩年を全うする事ができた。章帝は皇帝の位に即くと、朱勃
の子に穀二千石を追賜した。(※東観記に曰く。章帝は詔を下して言った。
「平陵県令・県丞に告ぐ。県人の元雲陽県令の朱勃は建武年間に、伏波将軍
が爵位と封地を伝える事ができなかった事から上書して陳情を行い、罪を
顧みず、善を顕彰する志を抱き、烈士の風があった。詩にも『報われない言
は無く、報われない徳は無い。』という。県の穀二千石を朱勃の子もしくは
孫に賜り、遠くから朝廷に礼に来させないようにせよ。」)
以前、馬援の兄の女婿の王磐(※字は子石)は王莽の従兄の平阿侯の王仁
の子であった。王莽が滅びた時、王磐は財産を持って故郷に在った。
王磐は気節を尊び、士を愛して施しを好み、江淮の間に名声があった。
後に洛陽に赴き、衛尉の陰興・大司空の朱浮・斉王の劉章らと仲が良かった。
馬援は姉の子の曹訓に「王氏は廃姓(官に就けぬ一族)である。子石は
ひっそりと隠居して身を保全するべきなのに、却って都の長者の間を行き来
している。気を遣って立ち回ってもうまく行かない事が多いだろう。失敗は
目に見えている。」と言った。数年の後、王磐は果たして司隷校尉の
蘇[業おおざと]・丁鴻の罪に連坐し、洛陽の獄に下されて死んだ。
王磐の子の王粛もまた北宮及び王侯の屋敷に出入りした。馬援は行軍司馬の
呂[禾中]に「建武の初めに天下を重ねて開くという号令が下された。今後は
国内は日に日に平安になって行くだろう。ただ気がかりなのは諸王の子弟が
皆意気盛んで、従来の諸王子の屋敷への賓客の往来の禁が守られていない事
だ。もし多くの賓客が通うようになれば、やがて大獄(大規模な処罰)が
起きるだろう。卿らはこれを自戒して慎むが良い。」と言った。
郭皇后が薨去した後、「王粛らは誅を受けた家の者です。これを受け入れた
なら、何かの事で乱を起こすでしょう。貫高・任章のような変事を起きる
事が心配でございます。(※張敖は趙王、貫高はその相である。高祖が趙王
を礼を以て遇さなかったので、貫高はこれを恥じ、壁の中に人を置いて高祖
を殺害しようとした。また、任章の父の任宣は霍氏の女婿であった為、謀反
に連坐して誅殺された。任章は夜中に宣帝の祠と昭帝の廟に黒い服を着て
入り込み、帝が来るのを待って弑逆しようとし、発覚して誅に伏した。とも
に前書に見える。)」と上書する者があった。
帝は怒って郡県に詔を下し、諸王の賓客を逮捕させた。
連坐して死罪となった者は千を以て数えた。呂[禾中」もまたその禍に巻き
込まれ、逮捕の命令に臨んで慨嘆し、「馬将軍は本当に神人であった。」
と言った。
永平の初め、馬援の娘が皇后に立てられた。顕宗(明帝)は南宮の雲台に
建武年間の名臣・列将の姿を描かせたが、馬援だけは皇后の意思により
一人その中から外された。東平王劉蒼がその図を見て帝に「何故、伏波将軍
の像を描かせにならなかったのでしょうか。」と言うと、帝は笑って答え
なかった。
十七年(73)に馬援の妻が死んだ。そこで、馬援の墓に植えた木で夫婦を
祀る祠を建てた。
建初三年(78)、粛宗(章帝)は五官中郎将に節を持たせ、馬援を謚して
忠成侯とする詔を下した。

馬援には馬廖・馬防・馬光・馬客卿という四人の息子がいた。
馬客卿は幼少から優れた才知があった。六歳で諸公を応接し、賓客に一人
で受け答えする事ができた。かつて死罪に値する罪を犯した逃亡者が馬客卿
の許に立ち寄った事があった。馬客卿はその者を匿い、人に知られぬように
した。馬客卿は外見は鈍そうであったが内面は明敏で、馬援は「これは将相
の器である。」と言い、大変目を掛けた。
故に客卿を字としたのである。(※張儀・虞卿(戦国の遊説の士。趙の上卿
となった。)はともに他国の客卿であったので、そう名付けたのである。
張儀・虞卿の事は史記に見える。)
馬援が死んだ後に馬客卿もまた夭逝した。

論に曰く。馬援は三輔に名声を博し、二帝に仕え、節を守り、策略を立て、
時に主君を諫め、まさに負鼎の願を懐いていた。(馬援が光武帝と出会えた
のは)千載一遇であったと言えよう。(※伊尹は鼎を背負って湯王に諫言した。
光武帝が竇融に与えた手紙に「千載の遇」とある。)
人の禍を戒めた事は智であるといえよう。(※竇固・梁松・王磐・呂[禾中]
らを戒め、皆その言葉通りになった事をいう。)しかし、自ら讒言による疑い
を免れる事はできなかった。どうして功名を立てても結局は大体こうなって
しまうのであろうか。(※功名を立てて高い地位にいると、讒言や陰謀が
起こりやすく、それを免れる者は少ないという事である。)
自分の利にならない事でもそれを謀るのはすなわち智である。己の事を考えず、
義を絶つような事をすれば必ず災いを招くのである。
本当によく物事を見るならば、己をもよく観察するはずである。これを人に
施すのは思いやりであり、それによって自らを顧みるのは明知である。(※
人を見抜く事を智といい、自らをよく見る者を明という。自らを見る明に
より人を見抜いて助けるならば、道理として通じない事があるだろうか。)