うぶすなと作品についてのエッセイ/官能といつのまにか !



 うぶすなの研究会は、勉強会と情報交換会と、メンバーの考え方を知ること、そして生きている時間の分裂の
1ピースで、他のピースの関係に思いを巡らすという意味で、やや異種の出来事。そのある俯瞰した視点をもつ
時間が、絵画の空間を生み出す所作の、そこここにアクセスして、層の中に畳み込まれる。

 生きている時間の、分裂の、それぞれの余韻によって、絵画に施される層の集まり。そこから自分に返ってくる
空間と空間の感じられ方。でもあまりにも薄い層だから、何回乗せても乗せたのかどうか分からない。そのうち
忘れてしまう。描いたことも、生きてたことも。でも目の前にあるんだな、絵が。ある日気づくと、平均気温が
変わって着る服が増えたり、アトリエのまわりの雑草が凶暴に生えてたり、見慣れたコンビニが無くなってたり、
靴が壊れたり、変に事務的な口調になってたり、絵が最初と別の姿で出来てたり。こう描こうって描いてないから
当たり前なンだけど、それでもいつ生きてたんだろうって、ほんと思う。

 僕の絵は、だいたい1日1層のペースで層が乗っていくのだが、その日の出来事、例えば職場で授業中、女子高生と
タメ口で話したときのフィーリングと、職員室でパソコンに向かって成績処理しているときの気分と、3分で昼飯を
済ませた胃の具合と、渋滞でげんなりしながらアトリエに向かう車の中のテンションと、朝の絶望感と、闇の中の
ブラウン管の光に恍惚となる就寝の5分前などによって、描く要素いっさいのチョイスと動作が決まる。その反復の
なかに、まだまだ暗黙知の次元がありそうで、イメージをカンバスに乗せる絵を放棄してきた。

 でも、絵の見方って、自由って言われるけど、がんじがらめでつまんないよね。
全部形容詞にするか、形式分析するか、さもなくば擬人化するかで。

 土地と、造形の関係って言うけど、その間には生きるってことがあって、僕の生き方は常に批判されるばかりだけど、
たとえば、休日に午後まで寝ることひとつとっても唾棄されるばかり。毎日、仙台市青葉区を海から山まで往復して、
その間に教諭して、制作して、勉強して、食べて、人と会って、テレビ見て、生活してる。そうすると、アトリエの笹は、
2日で1mのびるし、絵画空間にはじろじろ見られるし、コンビニ弁当は模様替えしてるし、鎌倉山が見える頃には雨だし、
3時間は寝れるし、うぶすなってそういうこと。


 生きている場所と、時間と、絵画空間には、重要な関係がある。これは、いわゆるアートと、拮抗する創造体である。
でも、アートにも引かれるけどね。また分裂だな。

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 絵を描き始めた頃に思ってたことを思い出してみる。いつのまにか出来る絵にあこがれてた。

 刷毛で支持体に絵の具を引っ張りながら乗せていくと、刷毛の幅の中には極薄の色層が形成され、と同時に、刷毛の幅の
すぐ両外に、線が出来る。それが途切れなく連続する。引っ張っている動作中もだし、その動作が支持体全体にスライドして
いくからね。その1シークエンス中、僕はペインティングなのか、ドローイングなのか、塗ってるのか、描いてるのか、判別
不能の所作をしているわけ。描こうとしてる場所の外に線は同時に2本出来てるし、それが長い色面と同時に、そう同時に
出来るんだから。支持体全面に進行していくにつれ、線は絡み合って、前に描いたのか後に描いたのか分からなくなるけど、
時間の経過の跡と動作の痕跡といえばいえるようなものがそこに残っちゃう。支持体全面に乗せるから、全部図になるかと
思えば、あいかわらず地だけで、図はどこだみたいに思うときもあるし。でもゲシュタルトって、脳の構造なんだから、意図
しても意味ないな。前後の運動って、気持ちいい。剣道やってたから。間合いと呼吸の問題。木枠に張って、立ち上げると、
また逆に別の空間に見られることになる。前後が上下になるって不思議だ。しかも、物体としても感じられる。ころころっと。
これって4D?スタートレック?

 液体って、重力で低いほうへ動く。あたりまえだけど、自分が描いた痕跡が、10分後に全然別のパターンになってるのは、
スリリングだ。おまえは生きてるのか。

 というわけで、支持体の変遷が始まる。描き方の所作は変わらず、跡は変わる。その反復層。転勤とか、引っ越しと同じ。

 だからいつも裏切られるから、支持体を換える。でなきゃ換えない。

 フェティシズムと、合成樹脂と、1968年生まれは、リンクしてる。宿命としての人工性。というか、ハウスプリンや3色バー
や練乳やサランラップのトラウマ。そういうふうにつくろうとしてないけど、そういうふうに出来ちゃったので、幸せです。
アクリルの原罪、水とビニールの同居。

 ムラなく描こうとしてもムラになるので、ムラで描いてしまおう。これがスタート。

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 その火花の細部を、潜り込んでのぞいていくと、いろいろ命名できる。たとえば描き方、出来た絵の構造の中に、すでに目的が
内蔵されている。形式と内容と目的と効果の完全一致。その継続の中から未知が発生するか。意味なき全体性としての絵画から、
未知(イリュージョン)が生まれるか。描くことと生きることの意味と無意味を、無理なくかかえるというイリュージョン。
うぶすなはここに関わる。つまり絵と自分と、両者に宿る幾多の幻が、生きる中でないまぜになる頃、夜霧の中で帰り道を的確に
走る「Q連続体」みたいなもんだ、とか命名できる。

 アートは、名前のない何らかの感覚、もしくは存在の、名付け親になるような出来事だけど、どっちかというと、名が無いという
だけでその存在を忘れてはいけないと、必死に「呼ぶ」ようなサイレントランニングじゃあないか。

 でも、絵の見方って、自由って言われるけど、がんじがらめでつまんないよね。
全部形容詞にするか、形式分析するか、さもなくば擬人化するかで。あと、人と違った見方をしてますよ、自分はいつも正気です
よっていって、さも自慢気だけど、実は何も見てない、とか。

 うぶすなのなかで始めた、バックホールシリーズは、亜空間の歪みとフェティッシュのキメラ。どこにもうぶすなは無い。逆に。

 3原色の透明色を凹凸のある支持体に多層がけすると、フルカラー使っていることになると思うンだけと、使ってみたらやっぱり
そうで、結局闇になるンだけど。

 僕らは、ものをばらばらにして見る見方しか生まれてから習ってこなかったけど、科学主義とか近代とかはともかく、例えばある
色の見え方や形と、心情や精神の関係を語るようなこと。分けないで見れないかな。分けないと闇になるけど、闇をのなかに光があ
るってのが一般的なのですね。うぶすな的には。

 生きている場所と、時間と、絵画空間には、重要な関係がある。特にその官能。
                                                                                                                                  2002.8.15