第65回 2・26事件とラジオ放送(2002・2・10記)

@「昭和維新」をめざす

Aそのとき、ラジオは・・

B放送局占拠の動きも

 

@「昭和維新」をめざす

▼ 2・26事件が起きたのは、首都東京に久しぶりの大雪(積雪35a)が降った1936(昭和11)年2 月26日午前5時ごろだった。2月になって東京に雪が降ると、当時を知る人は必ず2・26事件のことを思い出し、そのときの様子をある種の感慨を持って話してくれた。それだけ日本人にとって衝撃的な出来事だったと言える。そうした思い出を語れる人も年々少なくなってしまった。

▼「昭和維新」をめざす陸軍の一部青年将校は1400人の兵をひきいて、首相官邸や重臣の私邸を襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監を殺害した。

▼さらに朝日新聞などを襲撃したあと、国会議事堂、首相官邸、赤坂山王ホテル、警視庁一帯を占拠した。      

▼当初、彼らの行動に理解を示す陸軍大臣告示が出たが、その後首都に「戒厳令」がしかれ、一転して「反乱部隊」に変わり、2 万4000人の正規軍に包囲された。

▼4 日目の2月29日、青年将校らは逮捕され、下士官・兵士は原隊に復帰した。3月4日、東京陸軍軍法会議が開設された。1審のみ、上告なし、非公開、弁護人なしという裁判だった。7月5日、17人に死刑判決。7月12日、代々木の陸軍刑務所内で15人が銃殺刑。

▼『日本改造法案大綱』(1919)の著者北一輝は叛乱を指導した「首魁」として、西田税とともに翌1937年8月14日、死刑判決。8月19日死刑執行。北は54歳、西田は36歳だった。やはり「首魁」として死刑判決を受けた残りの2人の元将校も同じ8月19日、死刑執行された。

▼「皇道派」で、ク−デタ−成功後首相に目されていた真崎甚三郎陸軍大将は翌年9 月、軍法会議で無罪になった。

 クーデターとは「(国家レベルで)権力者側の1派が武力などの非常手段によって政権を奪うこと。」(新明解国語辞典)であり、こうして2.26事件のクーデターは失敗に終わった。

Aそのとき、ラジオは・・・

 では、当時ただ一つの電波メディアだったラジオはこの事件をどのように放送したか。発生から事態収拾までの4 日間、定時番組を一部取り止めて定時ニュースと臨時ニュースを合わせて51回放送している。

 しかし、いまでは考えられないことだが、当時の東京市民(600 万人)に事件の第1報が知らされたのは、発生から15時間余りあとだった。それまで逓信省から放送を禁止されていたのだ。新聞もまた夕刊(襲撃された朝日は発行出来なかった)は各紙とも一行もふれていない。

 また、放送は軍の支配下におかれ、28日以降軍部の発表はすべて戒厳司令部(軍人会館=現九段会館)から放送された。新聞・放送の息の根は完全に止められていた。以下、4日間の主な放送を検証してみよう。

【2・26】(臨時ニュ-ス6 回)

12:40臨時ニュース   

 7時間余経っても事件内容についての報道はない。しかし、初めて事件の伏線となる次のようなニュースを報道している。

「東京・大阪両株式取引所は臨時休止となりました。日本銀行、三井、三菱その他の東京市内の各銀行は平常通り営業を行っております。なお、東京手形交換所も本日臨時休業を発表しました。」     

19:00 定時ニュース 

 この時点でもまだ以下のような内容で、事件の詳報についての報道はない。

「@本日午後3 時、第1師管下戦時警備を下令せられる。

A戦時警備の目的は兵力を以って重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持するにあり。

B目下治安は維持せられあるを以って、一般市民は安堵してそれぞれその業に従事せらるべし。」

20:35 臨時ニュ-ス 

 ここで初めて事件の第1報が陸軍省発表として伝えられる。

「本日午前5時ごろ一部青年将校等は左記個所を襲撃せり。

首相官邸(岡田首相即死)

齋藤内大臣私邸(内大臣即死)

渡辺教育総監私邸(教育総監即死)

牧野前内大臣宿舎湯河原伊藤屋旅館(牧野伯爵不明)

鈴木侍従長官邸(侍従長重症)

高橋大蔵大臣私邸(大蔵大臣負傷)

東京朝日新聞社

 これら将校等の決起する目的は、その趣意書によれば、内外重大危急のさい、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党などの国体破壊の元凶を芟(さん)除し以って大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり、右に関し在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめられたり。」

21:30 定時ニュ-ス

 内務省発表「帝都および全国各地の治安は維持されている」

【2・27】(臨時ニュ-ス3 回)

 0:00定時ニュース

 内務省発表「帝都および全国各地の治安は維持されている」と繰り返す。   

6:30、7:50、8:30に臨時ニュ-ス

 東京警備司令官に香椎中将が戒厳司令官となり、九段の軍人会館に戒厳司令部が置かれた。放送で「午前2 時50分、帝都に戒厳令が布告された。」と伝える。

16:00定時ニュース

「重態の高橋蔵相死亡」と伝える。

21:30定時ニュース

戒厳司令部発表「種々流言が行われているが、帝都の治安は確実に維持されている。」

【2・28】(臨時ニュ-ス3 回)

 午前5時08分、天皇が直接命令を下す「奉勅命令」が戒厳司令部に下った。内容は反乱軍兵士に対して速やかに原隊復帰を促すものであり、これにそむく者は逆賊とみなすというものだった。

昼前、九段の戒厳司令部にマイクロホンがセットされ、「戒厳司令部発表の放送は以後すべて戒厳司令部の臨時放送室から出すように」命じられた。   

21:52臨時ニュ-ス

「戒厳司令部発表第3号

1.一昨26日早朝騒擾を起こしたる数百名の部隊は目下麹町区永田町付近に位置しあるも、これに対しては戒厳司令部において適応の措置を講じつつあり

2.前項部隊以外はの戒厳令司令官隷下の軍隊は、陛下の大命を奉じて行動しつつありて軍紀厳正志気また旺盛なり

3.東京市内の麹町の永田町付近の一小部分以外は平静なり。またその他の全国各地はなんらの変化なく平穏なり。」

23:00臨時ニュース

戒厳司令官が討伐命令を出す。

「反乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、依ッテ断乎武力ヲ以ッテ当面ノ治安ヲ恢復セントス」

【2・29】(臨時ニュ-ス23回)

6:30臨時ニュース

「戒厳司令部発表第4号

 2月26日朝決起せる部隊に対しては、それぞれその固有の所属に復帰することを、各上官よりあらゆる手段を尽くし、誠意を持って再三再四説諭したるも、彼らは遂にこれを聴き入るにいたらず、……事己にここに至る、遂にやむなく武力を以って、事態のの強行解決を図るに決せり。右に関し、不幸兵火を交ゆる場合においても、その範囲は麹町区永田町付近の一小地域に限定せらるるべきを以って、一般民衆はいたずらに流言蜚語に迷わさるることなく、つとめてその居所に安定せんことを希望す。」

7:25臨時ニュース

「(危険区域の住民は)全部直ちに避難してください。」

8:48臨時ニュ-ス(東京ローカル放送)

「兵に告ぐ」を放送

兵に告ぐ 勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動してきたのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によって、お前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。

此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、それは勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。

正しいことをしてゐると信じていたのに、それが間違ってゐたと知ったならば、徒らに今迄の行がかりや義理上から、何時までも反抗的態度をとって、天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける様なことがあってはならない。

今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。

お前達の父兄は勿論のこと、国民全体も、それを心から祈ってゐるのである。速かに現在の位置を棄てて帰って来い。

                   戒厳司令官 香椎中将」 9:55臨時ニュース

「兵士たちは将校の命令のまま出て行った者が大部分で、彼らを叛徒とみることはまことに忍びえないものがある。……昨夜から今払暁にかけ下士官以下約100名の帰順者があった。今日は9時ごろから赤坂付近において続々帰順をみている。」

11:00臨時ニュース

「(「兵に告ぐ」を復唱した後)……この布告は、放送と同時に日本放送協会よりもラウドスピーカーなどを提供し、基準を勧告するなどして、知らず知らずのうちに勅命に抗するようになった気の毒な兵士を一人でも多く救うため、万全の手段を講じた。」

11:30臨時ニュース

「首相官邸および山王ホテルにある極小部隊を除きほとんどの反乱軍は大なる抵抗をなさず、帰順した。」 

15:00臨時ニュ-ス

「反乱部隊は午後2時ごろをもってその全部の帰順を終わり、ここに全く鎮定を見るに至れり。」

 この後、17:40の臨時ニュースで、当初、即死と報じられた岡田首相が生存していたことを明らかにし、19:00の定時ニュースで戒厳司令部からの放送は終了した。    

B放送局占拠の動きも

 どこの国でもク−デタ−が起きるとまずメディアが狙われるが、2・26事件では放送局は無事だった。しかし、今度調べてみて、そうした動きが全くなかったわけではないことがわかった。

 28日夜、反乱軍が立てこもる山王ホテルで取材した放送局員のメモによると、

「反乱軍中、将校並びに下士官は街頭宣伝の挙に出て・・・演説中<放送局攻撃>に及ぶや聴衆中より<放送局を占領してこの演説を放送せしめよ>と呼び群衆悉く之に和して喚声をあげ・・・」

と報告している。

 29日未明になると、東京放送局のあった愛宕山の近くで「銃声が聞こえた」とか「白たすきを十字にかけた将校が拳銃を向けながら自動車で通過した」といった情報が相次ぎ、正規軍107 人が派遣され、襲撃に備える態勢を整えている。

 8・15の敗戦の日には、抗戦派が内幸町放送会館を一時占拠したが、2・26事件でも「放送局攻撃」の動きがあったようだ。     

 2・26事件では、行動を起こした将校・下士官・兵士たちが「地区警備隊」から「反乱軍」に変わった瞬間などいまでも謎が多い。公の「裁判記録」は空襲で焼失したとされ、事件勃発の日の「陸軍大臣告示」がどのような経緯で出たのかまだ解明されていない。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。それにしても、そのとき、反乱軍が放送局を占拠していたら、敗戦時にやはり失敗に終わった天皇の玉音盤奪取事件(1945年8月14日〜15日)と同じように、昭和史が大きく変わっていたのは間違いない。#

参照『20世紀放送史』ほか