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(その参)


前田 啓 大尉

前田啓大尉(23歳)

第二三振武隊 
昭和二〇年四月三日出撃戦死、北海道

遺書

父母様 啓ハ大命ヲ拝シ征ク事ニナリマシタ。
二十有余年ノ今日ニ至ル迄厚キ御愛情ヲ受ケ、何一ツ孝行モ
出来ズ御心配バカリカケ申シ訳御ザイマセン。厚ク御礼申シ上ゲマス。

啓ハ大君ノ御為太平洋ノ防波壁トナリ死ニマス。
武人ノ名誉之ニ過グルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。
御安心下サイ。

今日ノ誉レ啓ゴトキ小臣、身ニ余ル光栄ナリト存ジマス。
我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、魂ハ遠古天地ニ止マリテ皇国
ノ礎ヲ護ラム。

軍人タリ股肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。
而シテ身命ヲ大君ニ捧グルハ日本臣民ノ大義大道ナリ。
又軍人ノ本分ナリ。

一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ

君ニ忠ナリ親ニ孝ナリノ両輪コレノ道義ニ邁進シ、死ヲ以テ
山ヨリ高ク海ヨリ深シノ君親大恩ノ万分ノ一ナリト報イ奉ル決心ナリ。

最後ニ父上様御一同ノ御壮健ナラン事ヲ御祈リ申シ上ゲマス。
猶、特ニ自分ノ墓ハ不用デアリマス。亡母ノ御墓ノ側ニ静カ
ニ寝カセテ下サイ。サヨウナラ。

天皇陛下 万歳

振武隊 万歳

若桜屍ヲ空ニサラストモ

   何惜シカロウ大君ノタメ

・・・・・・・・

俺が死んだら

        何人泣くべ


知覧記念館

知覧記念館

上成 義徳 少尉

上成 義徳少尉(25歳)

第八〇振武隊 
昭和二〇年四月二二出撃戦死、鹿児島県

遺書

二十有余年ノ御恩ニ深謝ス。孝ノ及バザルヲ悔ユルノミ。
而レ共父母ノ心子ニ通ジ子ノ心父母ニ通ゼン。
今般宿望ノ特別攻撃隊ニ参加シ郷土南西諸島ニ散ル。
又望ム所ナリ。
郷土又戦場ト化ス。
勝ツヲ信ジ健斗ヲ祈ル。

四月四日

父母様        義徳

特攻の首途に
大君のみたてとなりて吾征かん
   南西に散るこころうれしや

国家之危急
親もかへり見ず
吾亦征かん南西の海

出撃前夜

君がため雄々しく散らん桜花


知覧記念館

知覧記念館

佐藤 淑雄 中尉

佐藤 淑雄中尉(22歳)

飛行第六〇戦隊 
昭和二〇年五月二四日出撃戦死、群馬県

遺書

一、予ハ生ヲ万邦無比ノ国ニ禀(ウ)ケタリ。予ハ茲(ココ)ニ絶大ノ感激ト喜悦トヲ覚エ且予ノ使命ヲ悟ルナリ。

一、昭和十八年十二月軍隊ニ入営ス。ソノ日ヨリ既ニ予ハ、大元帥陛下ニ捧ゲ奉レル身ナルヲ知ル。

一、昭和十九年二月自ラ志シテ航空兵科ニ転ズ。余ノ使命ハ空ニ在リ。以来予ハ透徹セル死生観ニ生キ大空ニ散ラント覚悟セリ。

一、空中勤務者ナレバ常ニ死生栄辱ニ恬淡タレトは常ニ申サル言葉ナリ。余ノ心境未ダコノ境地ニ到達セズ。サレド軈(ヤガ)テ信念トナ ルノ日モ近カラン。

一、余更ニ功ヲ願ハズ只皇国軍人トシテ戦場ニ屍ト相果ツルヲ希フノミ。

一、身ヲ軍籍ニオキ大東亜戦争ニ際会ス。国家危急ノ秋一片ノ護国ノ捨石トナルヲ男子本懐ト観ズ。

一、父母兄弟姉妹ニ後顧ノ憂ナク総ユル係累ヲ絶チテ任務ニ死スルヲ無上ノ喜ビトス。

一、生レテ二十有三年此ノ間受ケシ父母ノ恩、師の恩ソノ深キヲ知ラズ。報ユルニ時ナカリシヲ深ク愧ズ。


菊池 誠 大尉

菊池 誠 大尉(22歳)

第五五振武隊 
昭和二〇年五月二五日出撃戦死、栃木県

辞世

かえらじと思うこころのひとすじに

     玉と砕けて御国まもらん


知覧記念館

後藤 光春 大尉

後藤 光春 大尉(22歳)

第六六振武隊 
昭和二〇年五月二五日出撃戦死、三重県

遺書

戦局ノ重大性ハ日一日ト増ス
国家総力戦ノ最高度化ヲ必要トセラルルコト甚大ナリ
御精励ノ程御願イ致シマス

幼き頃のご指導を謝します。
神明の加護の許に神通体当りに参ります。

五月初  振武隊長
後藤光春

初陣が最後      後藤光春

完全ナル飛行機ニテ出撃致シ度イ
五月一日        後藤光春


知覧記念館

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知覧記念館

知覧記念館

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高橋峰好伍長

ほがらか隊

出撃2時間前の笑顔:ほがらか隊

第七十二振武隊 
昭和二〇年五月二七日出撃戦死

前列左から、早川 勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長。

後列左から、高橋 要伍長、高橋峰好伍長。

辞世の句  荒木幸雄

帰らじと 父母に決別若櫻 馳せ参じ征く 大君の股肱

以下は報道ステーションより抜粋

鹿児島の平和記念館などで飾られていた、軍服姿の少年がイヌを抱く写真。
微笑みかける少年、荒木幸雄は、この写真が撮影された直後、特攻隊員として空に飛び立った。
群馬県桐生市で8月1日、「荒木幸雄をしのぶ集い」が開かれた。
幸雄と二つ違いの兄、荒木精一さん(78)は、若い人たちの参考になればと、遺品の公開に踏み切った。精一さんから見た幸雄は、夢を 追っていたごく普通の少年、だという。

60年前の少年、幸雄が追っていた夢は大空への夢だった。
15歳の秋に応募したのが、陸軍少年飛行兵。筆記試験などの難関を潜り抜け、福岡・大刀洗陸軍飛行学校生徒隊に入る。戦局の悪化から 1年の過程を半年で詰め込む過酷な日程の中で、幸雄は地理や気象学を勉強し、操縦訓練でも才能を発揮。昭和19年3月の卒業に際して は、最高の栄誉とされる陸軍航空総監賞を受賞した。

その年の6月。アメリカ軍がはじめて本土を空爆。そして10月、特攻の作戦が始まった。優秀なパイロットは敵に体当たりできる可能性 が高い。幸雄は他に先駆けて、特攻隊に選ばれた。4月5日。桐生の実家に現れた幸雄は「大命が下りました」とだけ言い、家族それぞれ に封書を渡し、知らせがあったら開けるよう言った。

佐賀県にある西往寺は、出撃命令を待つ特攻隊員の宿舎にしたお寺。
幸雄の所属する第七十二振武隊は、五月半ばにやってきた。
隊長以下10名のうち7名が10代の少年。明るく歌って過ごし、ほがらか隊と自称していた。
4日目の正午、明日出撃せよとの命令が下る。
住職の娘で、幸雄と同い年だった静枝さんによると「キッと目つきが変わって、もう声もかけられない」様子だったという。
しかし、5月25日朝、前線基地に移動することになった幸雄たちは、見送る人たちに、笑顔を見せた。

幸雄たちは、特攻のための秘密基地として急遽作られた鹿児島県の万世飛行場へとやって来た。
出撃予定時刻の2時間前。幸雄が子犬をそっと抱き上げた。
その姿を取材中の朝日新聞のカメラマンが写した。

昭和20年5月27日。援護機も戦果確認機もついて行かず、幸雄たちは飛び立っていった。
記録には「沖縄南部海面にて戦死」と書かれていた。
桐生にある幸雄の墓には、髪の毛と爪しか納められていない。

沖縄戦の航空特攻で死んだ若者は、およそ3000人。
どこでどう死んだのか、そのほとんどを私たちは今も知らない。

特攻日記:前田笙子

前田笙子(15歳):女子勤労奉仕隊員の記録

知覧高等女学校三年 
特別攻撃隊担当

特攻日記

昭和二十年三月二十七日

作業準備をして学校へ行く。先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと、びっくりして制服にきかえ兵舎まで歩いて行く。はじめて三 角兵舎にきてどこもここも珍しいものばかり、今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。こんなせま苦しい所で生活なさるのだと思ったと 私達はぶくぶくした布団に休むのが恥かしい位だった。

わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかえらぬお兄様方が明日の出撃の日を待って休まれるのだと思うと感激で一杯だった。五時半かえる。

昭和二十年三月二十八日

今日は特攻隊の方のいらっしゃるお部屋へまわされたが、初めてのことで恥かしくしたり逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥じ た。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおっしゃることをおききして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やろうと思う。

昭和二十年三月二十九日

朝お洗濯をして午後ちょっと兵舎のお掃除をしたついでにおはなしを承る。大櫃中尉を隊長とする第三十振武隊の方々は若いお方々で、隊 長さんの威厳とした態度、私達には至ってやさしい隊長さん、部下の方々も実に隊長様にはなついていらっしゃった。松林の中で楽しく高 らかにうたをうたう。

昭和二十年三月三十日

今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいただいて最後のお別れとして私達のマスコット人形とを差上げる。無邪気に喜ばれる。 貨物(トラック)で飛行機のところまで行って食料等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言われて愛機に飛び 乗られる。愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるように風にゆられている。出発なさったが天気の都合でかえら れる。大変残念がっていらっしゃった。

昭和二十年四月一日

今日はお洗濯、掃除をした後皆でお話をする。十八歳の今井兵長さん、福家伍長さん二人で杉の皮をけずられ「伍長グラマン」(この頃は 空襲がはげしく、グラマンの波状攻撃がつづいた。このグラマン機が発進するアメリカの空母を、まもなく伍長に昇進する今井兵長ととも にやっつけてやる、という意味らしい)と書かれる。

何時までも何時までもお二人のことを物語るように。そして妹さんに笑って出撃したと書いてくれとおたのみになる。血書をして私も一緒 にとマスコット人形、髪の毛、爪を渡されたそうで、この立派なお兄さん、そしてこの立派な妹さんのことをお聞きして感泣する。
この日、岩脇さんと戦闘指揮所へ行く。

昭和二十年四月二日

今日出撃とのこと、横田少尉殿、襦袢のホックを付けてくれとお願いされ一人兵舎に行くのもなんだが恥かしく森さんと二人で行く。晴れ の門出と言うので横多少尉殿、チョビ髭をきれいにそっていらっしゃる。

午後三時半出撃・・・日の丸の旗を打ち振ってお送りしたが宮崎少尉がすぐ引返して着陸なさる。続いて大櫃中尉機、次々へと・・・。宮 崎機は「ウ、、、」と調子が悪く火を吐きそうになった。残念だったが、自分一人ならそのまま行くのだが整備兵を乗せていたので引き返 していらっしゃったとのこと。隊長機(大櫃)は左右大へん振動がはげしく、福家機は爆弾を落としてしまい、後藤機故障でゆかれずして 今日は隊長さん二度とも出撃出来得ず兵舎で一人歯ぎしりしていらっしゃった。

兵舎でみんなそて特攻隊の方々と唄をうたう。「夕日は落ちて」「校歌」。宮崎少尉さんより哲学のお話をおききしたけれども、よくのみ こめないで頭がぼうっとなる。

敵が上陸したらどうするかとという話を承る。私達も立派にお兄様方の後につづき日本の女性のということを忘れず一人でも殺して死ぬつ もりです。自分達は敵艦もろともなくなられる身ながら朗らかに談笑され、それに私達の将来のことまで心配され、いたずらに死んではい けないとさとされ、私達は只々頭が下がるのみだった。

池田兵長さん唄う。

昔々その昔爺さんとばあさんがアッタトサ
ヨイヤサキタサ
爺さんは山へしばかりに、婆さんは川へ洗濯に
ヨイヤサキタサ
ドンブリゴッコ、ドンブリゴッコ流れくる
婆さんはそれを拾いあげ
ヨイサキタサ

昭和二十年四月三日

今日は四回目の出撃、まさに四時であった。最後の基地知覧を後に大櫃機以下十機は遠い遠い南へと飛び去っていった。只一人病床にある 河崎伍長さんを残して。出撃前、飛行機の擬装をとってあげると「こんなにお手々きたくなるよ」と今井さん。皮のよごれた手袋を見せな さる。無理にお願いしてとってあげる。

横尾伍長さんたいへん喜んで「後に何も思い残すことはないが、只一つ病床に残した河崎のことが気にかかる」と。そうでしょう、横尾さ んと河崎さんとは本当に睦まじい戦友だったんですもの。自分は今日とは知れぬ身ながら病気の戦友を思いやる横尾さん実に立派な方だと 思う。

部下の骨を背に出撃なさった隊長さんと言い、チョビ髭の横田少尉さんと言い、私達を妹の如く、また子の如くかわいがって下さったし私 達は本当に幸福だったと思う。岩間さんの書置、何も出来得なかった私共にこんなにまでにお礼の言葉を戴いたと思うと有難さで胸が一杯 だった。
私達は只三十振武隊の方々が無事敵艦に体当たりなさって立派に御大任をお果たしにならんことをお祈りするのみです。

昭和二十年四月四日

病気の河崎さんと整備の方々だけでひっそりと兵舎はしていた。昨日まではああだった、こうだった、とみんなで兵舎での思い出を繰り返 す。河崎さんの看病のかたわらちょっと警備中隊へ布団を取りに行く。新聞記者に捕まり特攻隊につかえての感想、覚悟等話す。幾人もの 新聞記者に取り巻かれほとほとした。

昭和二十年四月五日

特攻の方がいらっしゃらぬので整備の方々のお洗濯をこちらからお願いしてやってあげる。終日飛行機と取り組み疲れていらっしゃるでし ょうと慰めてあげる。特攻機を無事に故障なく飛ばすのは整備の方なのだ。私達はこの御苦労をおさっしして毎日でもお洗濯をしてあげな くてはと思った。

昭和二十年四月六日

自分が整備された愛機はもう体当たりしただろう、「今日は隊長殿の命日としてみんなで拝もう」と整備の方がおっしゃって森さんと私、 たばこを一本もらってバラバラにして火にお香がわりにたいて拝む。遥か南の方へ・・・ニ、三日前までは元気でいらっしゃった方々が今 は敵艦へ体当たりなさってこの世へはいらっしゃらぬのだと思うと仕事も手がつかず食事の準備をしただけ。

整備の方の吹く尺八をきいていると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受持ちだったのだが、兵舎が離れていて飛行 機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろいをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分ののも」と 言ってつくろい物で午後からは精一杯だった。

昭和二十年四月七日

今朝、食事の用意をしていると、どうも見馴れぬ方が四、五人あちこちなさるので「食事の準備ができました」と言って行くと、新しい方 々だけだったので人違いをして恥をかく。少尉の方だけで、隊長さんが陸士出身、実に立派な無口でしっかりしたお方の様で「今度きた方 みんなお年を召した方だけね、あんな年を召した方でも特攻隊なんでしょうか」とささやいたぐらい。みんな髭の濃い、年を召した様な感 じだった。ひっそりした兵舎も又賑やかになる。

昭和二十年四月八日

本島さん、椿とつつじの花をくださる。今頃つつじの花がと皆で珍しがって松の木にさす。これが枯れたら本島さんが出撃なさって体当た りなさったときよと話し合ってさす。渡井さんより静岡の女学校で戴いたというマスコットを戴く。

穴沢少尉さん曰く、「何時も貴方達は俺達の兵舎へきてくれぬ。何故だ。洗濯物だってあるんだよ」と連れて行かれる。行ってみると何ん の用事なしでポカンとなった。大平少尉さん、穴沢少尉さんのお話に答えるだけ。雨が降っていて洗濯にいったままの姿できてしまったの でみんな素足、さんざん冷やかされて兵舎を飛び出す。

昭和二十年四月九日

今日はお洗濯、お掃除をして兵舎へ用ききに行く。河崎さんも近頃よくなって兵舎の外へも出られる様になった。洗濯のついでに整備の方 の魚取りを見に行く。小泉さんと河崎さん土手から川へすってんころりん。危うくぬれねずみになるところを木元さんが抱きとめる。

電気で水中に火花をちらして取るのだそうでピチピチ筒先から火花をちらすと一匹魚がぷっと白い腹をみせて浮かんだ。電熱が弱いため駄 目で全部魚は逃げてしまった。福家兵長さんの妹さんへ最後を書いて出す。

昭和二十年四月十日

今朝中に仕事をすませて午後より慰問団の舞踊を見物に行く。池田隊長、岡安、本島、渡井さんと共に、早いので小高い畑に遊びに行く。 「空から轟沈」のうたを高らかに唄う。無口な隊長さんまでが無邪気に唄われる。隊長さん「この甘藍は巻くだろうか」と心配していじら れた。渡井さんは、「自分なんかキャベツと言いますよ」と、岡安さんは「僕は玉菜と言うよ」。

はてさて隊長さん思わず部下の冗談には苦笑される。渡井さん何時ブツブツ言い乍ら。隊長さん「どうもあの渡井にはかなわないよ」「お まえは特攻隊になりたいか」ときいたら、その子の言うに「僕はなりたくない。長生きをした」と言ったそうだ。子供にやさしい隊長さん 航空糧食をやると、受け取ろうとした時大きな唐芋(さつまいも)がペタリ・・・・・茹でたてのほやほやがペシャンコになる。

みんなして大笑い。そのとき自動車が来たので隊長さん一人で走って行かれたが、ガンガン(一斗缶)を山の様に積んだ自動車なので頭を 掻き掻き登っていらっしゃる。又トラックが来る。木島さん「止めてくれ」の一声、踊り子をのせた自動車はピタリと止まる。それに乗っ て見に行く。しかし時間のため又すぐ帰る。みんな町へ外出なさる。

昭和二十年四月十一日

午前中、洗濯、縫物、掃除をすませて食事の後片づけも終え、午後から同部隊の特攻機が五機つく筈なので迎えに行く。戦闘指揮所で隊長 、本島、岡安、渡井さんと共に待つうち二機着陸する。隊長さんことのほかのお喜び、二人の部下の方々も大変喜んでおられた。今から出 撃までお世話になるからと挨拶をなさる。

「明日出撃だ。おまえたちもくる早々征くか」とおっしゃると「一緒に行きます」と元気な声でおっしゃる。その晩、二十振武隊、六十九 振武隊、三十振武隊のお別れの会が食堂であった。特別九時まで時間をもらって給仕をする。前に隊長さん住所を書いてやるから家に出撃 したことを知らせてくれとお願いされていたことを思いつき、酔っていらっしゃたけど住所をおききする。酒臭い息を吹きかけながら優し く書いて下さる。

「空から轟沈」のうたを唄う。ありったけの声でうたったつもりだったが何故か声がつまって涙が溢れ出てきた。森さんと、「出ましょう」 といって兵舎の外で思う存分泣いた。私達の涙は決して未練の涙ではなかったのです。明日は敵艦もろともなくなられる身ながら、今夜は にっこり笑って酔い戯れていらっしゃる姿を拝見したとき、ああこれでこそ日本は強いのだとあまりにも嬉しく有難い涙だったのです。岡 安さん、酔って自動車にぶらさがってお礼を言われる。何と立派な方々ばかりでしょう。森さんとだき合って泣いた。

昭和二十年四月十ニ日

今日は晴れの出撃、征きて再び帰らぬ神鷲と私達をのせた自動車は誘導路を一目散に走り飛行機の待避させてあるところまで行く。途中「 空から轟沈」の唄の絶え間はない。先生方と隊長機の偽装をとつてあげる。腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかつた。本島 さんの飛行機もブンブンうなりをたてていた。

どこまで優しい隊長さんでせう。始動車(当時の飛行機は発進のときプロペラの回転が自動でできず、始動車によって始動した機が多かっ た)にのせて戦闘指揮所まで送られる。うしろを振り返れば可憐なレンゲの首飾りをした隊長さん、本島さん、飛行機にのってて振り向い ていらつしやる。

桜花に埋まつた飛行機が通りすぎる。私達も差上げなくてはと思つて兵舎へ走る。途中、自転車に乗つた河崎さんと会う。桜花をしつかり 握り一生懸命馳けつけた時は出発線へ行つてしまひ、すでに滑走しやうとしてゐる所だ。遠いため走つて行けぬのが残念だつた。本島機が 遅れて目の前を出発線へと行く。と隊長機が飛び立つ。つづいて岡安、柳生、持木機、97戦は翼を左右に振りながら、どの機もどの機も につこり笑つた操縦者がちらつと見える。20振武隊の穴沢機が目の前を行き過ぎる。一生懸命お別れのさくら花を振ると、につこり笑つ た鉢巻き姿の穴沢さんが何回と敬礼なさる。

パチリ・・・・・・後を振り向くと映画の小父さんが私達をうつしてゐる。特攻機が全部出て行つてしまふとぼんやりたたずみ南の空を何 時までも見てゐる自分だつた。何時か目には涙が溢れ出てゐた。何も話す気はせずみんなで帰ろうとすると、本島、渡井さん、本島さんは 男泣きに泣きながら・・・・「どうしたの」とお聞きすると

「今日ね、爆弾が落ちて行かれなかった。隊長さんの所へ行くと(本島、後からこいよ。俺はあの世で一足先に行って待っておるぞ)と言 われたんだ。思わず残念で隊長機の飛び去った後、一人思う存分泣いた」とのこと。渡井さんも「本当にすみませんでした」と涙ぐんでい らっしゃる。私達も今までこらえていた涙が一度にこみあげてみんなで泣いた。

その夜、隊長さんのお通夜だと言って酒も飲まれず、今日いらっしゃった堀井さんが冗談をおっしゃっても只ぼんやりときいていらっしゃ るだけだった。「本島、本島」と部下愛の深かった隊長さんを思い出すと泣けるから黙っていてくれとおっしゃる。立派な隊長さんと一緒 に体当たり出来得ず又第二次総攻撃に参加出来なかったことが残念だったことでしょう。

昭和二十年四月十三日

昨日いらっしゃった六十九振武隊の方々のお名前をお聞きする。副隊長の山下少尉、そして渡辺少尉、河村少尉、堀井少尉、中山少尉でい らっしゃるそうだ。いくらか本島さん、渡井さんも元気づかれた。みんなで隊長さんを恋しがっていらっしゃった。

昭和二十年四月十四日

今朝、食事の後片付けをしてから、書置、辞世をかいて戴く。帰りの自動車の中で敵撃滅のうたを唄う。夜空を仰いで亡くなられた方々を 偲ぶ。誘導路を走ることしばし・・・・・途中整備の方々が飛行機に取り組んで整備に余念なく、機は青い火をふいて回転していた。

本島さんはその方へいちいち敬礼される。整備の方へ有難うの感謝の敬礼をされる操縦者。又、一生懸命故障なく明日の出撃にそなえて徹 夜までする整備の方々。私達はそれを目前に見て、これだからこそ日本の兵隊さんはえらいんだと思うことだった。

昭和二十年四月十五日

明日の出撃にそなえて大変忙しい。遺品のつつみかた、後片付け、お掃除等。本島さんよりお願いされてマスコット人形を二つ差上げる。 明日は隊長の後を追ってあの世に行けると大変喜んでいらっしゃった。

本島少尉様は小さい時お母様を失われた方だそうで、私にも母がないことを知って大変同情して下さった。「母なき後は母がわりとなって よき姉として強く生きるんだよ」と教えて下さった。慰問団くる。

昭和二十年四月十六日

今日はいよいよ出撃だ。朝四時、森さん迎えにくる。飛行場まで特攻隊の方と自動車に乗って行く。胸に殉職された方の遺骨を抱いて悲し い顔ひとつなさらず「男なら」「同期のさくら」のうたをうたっていらっしゃる。今朝に限ってどのうたも悲壮にきこえてならない。

白鉢巻に白きマフラー、りりしい姿のお兄様方が戦闘指揮所前に並んでいらっしゃる。みな同じ服装で暗くてよくわからない。自分達の受 持ちの方々を探していると本島さんひょっこり「おはよう」と声をかけられる。「六十九振武隊集合!!」と本島さん。皆集まられて最後 の話にふけることしばし。

本島さんは隊長に戴いた菊水の鉢巻をし、渡井さん、堀井さんはたすきをしていらっしゃる。散りかけた八重桜を差上げると大変喜ばれた。 二つのマスコットのうち一つを愛機に、一つを飛行時計へぶらさげられたとのこと。自動車で出発線のところまで行かれる。渡辺さん見え なくなるまでハンカチを振られる。

滑走をはじめた飛行機が次々と離陸する。東の空が少し白みかけるころだった。薄暗い中にもはっきりと「もとしま」と書いた飛行機が飛 び立つ。「アッ本島さんだ」と思うとすぐ「わたい」そして堀井機が飛ぶ。三機編隊をくんで飛んで行く。堀井機がものすごく低空をとぶ。 思わず冷や汗が出る。

最後までお送りして兵舎へ帰る。しかし何時までも何時までもぼんやりと考えこむ。日の出と共に最後の基地を飛び去って征かれた神鷲の ご成功を祈りながら。今朝の感激を語り合っていると山下少尉一人帰っていらっしゃる。「すみませんでした」と紙片を渡される。五名( 渡辺、堀井、渡井、中山、山下)の名が記されてある。

これだけ五名ゆかれなかったんだ。そうすると征かれた方は本島さんと・・・・・河村さん・・・・・どんなことがあっても今日は征くと 言っていらっしゃった御二人。午前九時半、本島、河村さん無事体当たりなさった頃、南へ向かって黙とうを捧ぐ。今でも元気な声で「空 から轟沈」を唄う本島さんの声が聞こえるようだ。

昭和二十年四月十七日

敵襲で防空壕に退避する。三十一振武隊のハセベリ(長谷部)さんが御飯食べずに逃げこんでくる。皆から弱虫だと言われてプイと壕を飛 び出して行ったが又「退避々々」で御飯を口に入れたままで、慌ててはいってくる。渡井さん「坊や又来たのか。御飯だけはゆっくり食べ ろよ」と言われて出ていったが、敵機の爆音を聞いて又走り込んでくる。やっと三回目で食べ終えたとのこと。ほんとうに呆れてしまった。

優しく女性みたいで坊ちゃんで育ったと言う渡辺さん、一度も退避なさらなかった。堀井さん、一度爆撃されて命拾いしたから出撃までは 大事な体故と通過しおえるまで退避していらっしゃった。壕の中でも一人ではしゃいで慰問団がきておどったという「花は霧島・・・」を おどられる。手ぶり身ぶりの上手なこと、思わず先生方と吹き出す。

二十振武隊のいた兵舎に寝ころんでいると赤崎さんが「出撃だってよ」とはいってくる。びっくりして飛び起きていくと渡井さんが「早く 死んだ方が幸福だよ。俺達の様な死にそこないは苦労するよ。福岡辺まで行かねばならぬからね」とのこと。近頃少し顔色もよくなった河 崎さん、まだ目は黄色くしてだるそうにして来る。「河崎さんも行くの」ときくと「ううん」といっている。

本当に特別攻撃隊の御苦労が察せられた。夜先生の家へ渡井さん、堀井さん、河崎さん達と一緒に行く。トランプ等をして楽しむ。

昭和二十年四月十八日

午前七時、知覧発の汽車で福岡へ行かれる。先生方と一緒にお見送りに行く。汽車が発車するまで「友ちゃんと新ちゃんは」と同期のさく らをうたって励ましてあげる。他の特攻隊の方々もうたわれた。四、五日したらすぐ帰っていらっしゃるとのこと、早く帰っていらっしゃい と慰めてあげる。

河崎さんにも別れを告げて又渡井さん、堀井さんの所へ行くとすぐ列車は動き出した。列車が見えなくなるまでハンカチを打振る渡井さん、 堀井さん、河崎さんのお顔が窓から小さく見えていた。

河崎さんの縛帯をお頼みされて兵舎へ持っていく。昨日飛行機で征かれた渡辺さん、中山さんのお帰りを待つのみ。兵舎は山下少尉と長谷 部さんと整備の方がお一人だけ、山下さんも午後より福岡へ。今当分特攻隊の方々がいらっしゃらぬから明日から休みとのこと。


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