「ともに公共哲学する時空」の主旨、もしくは基本姿勢
わたくしから「ともに公共哲学する時空」の主旨、もしくは基本姿勢についての説明を申し上げます。
まず、なぜ哲学なのか。いろんな物事をその大本からきちんと考えてみたいからです。大本からきちんと考えてみたい問題はたくさんあります。しかし、21世紀の日本で改めてじっくり考えてみたいのは、自己と他者がともに幸福になれる世界をどう築くかという問題です。なぜ幸福の問題を考えるのか。それは、今の日本が、日本人が、そして、そのような日本で日本人とともにいろんなことをしている日本在住の人々が、あまり幸福でないのではないかという気がするからです。なぜか元気がない。なぜか明るくない。なぜか鬱が漂う。世界第2の経済大国なのに。いろんな条件がよく備わっているのに。
わたくしには、現在と将来の日本と日本人は、本当の幸福とは何か、どういうことなのかという問題に対して、誠実に哲学することが何よりも優先されるべきではないかと思われます。幸福の科学、政治学、経済学、社会学、宗教学、心理学よりも、まず幸福の哲学が日本をよりすばらしい国家にする上で真っ先になすべきことではないでしょうか。国民一人ひとりが幸福でないのに富国強兵とか、富国有徳がどのくらいの意味があるのでしょうか。
日本と日本人が、本当に幸福であってほしいのです。なぜか。日本と日本人が本当に幸福であるということが、韓国と韓国人、中国と中国人が本当に幸福になるということと深くつながっているからです。お互い様であるからです。日本と日本人が幸福でなければ、その不幸の原因を外に求め、それを解消するという名目でどんなことをすることになるか分らないからです。そこからとんでもない敵意と殺気と怨念の悪循環が始動するかも知れないからです。幸福な国家や国民は隣国に攻めいったり、奪い取ったりしないと思うからです。幸福な人こそ仲間とか親類だけでなく見知らぬ人に対して寛大・融和・配慮する傾向が多いと言われるからです。
では、なぜ哲学対話なのか。わたくし一人で考えても意味がないからです。従来の哲学を想定するのであれば、わたくし一人で書斎にこもって、古今東西の賢者哲人たちの言行録をあまねく読み漁り、深思黙考・理上磨錬をかさねて廓然知得したことを書き記し、それを何らかのかたちで発表するということも考えられます。しかし、そのような哲学のあり方に食傷したのです。哲学者の哲学文献学には興味が湧かなくなったのです。生の人間と心を開いて語りあいたいのです。わたくしとはいろんな側面で相異なる人間との実心実語の対話が恋しいのです。
対話は会話とは違います。会話は多数の人間が集まって話すということです。「話す」とは「離す」もしくは「放す」とも語源的には類似のものですが、発話者の一方的な発信行為です。独話です。ですから、複数の人間がそれぞれ自分の言いたいことを言うのです。「言」(う)と「話」(す)は一方的な発話という意味では一緒です。「語」(る)とは相手の発言・発話をき(聞・聴)くというのが先にあって、それに応答する形で自分の意見・反応・対応をことばで示すということです。ですから、対話についてのわたくしの個人的な考え方を「語りあう」という言い方であらわしてきたのです。勿論、会話との違いをより鮮明に意味づけするためです。哲学対話と哲学会話とはまったく違うものです。多数の人間が集まって自分の哲学を発表するというのは哲学会話です。ほとんどの哲学関係の学会や集会は、圧倒的多数が独話か会話の集合であります。しかし、そこに対話はあまり見当たりません。
対話とは基本的に自己と他者の出会い・交じりあい・語りあいが必須条件です。多数の自己たちが集まって自分の言いたいことを話す会話とは違いまして、自己と他者―自己とは相異なる・相反する・同化を拒む存在―とがともに・たがいに・向きあって語りあうのが対話なのです。そして、自己と他者とのあいだ・あわい・向き合いをむすび・つなぎ・いかすための対話には忍耐と寛容と自制が必要です。「おどろ(驚・愕・駭)き」と「とまど(戸惑)い」と「ためら(躊躇)い」を「こわ(怖・恐)がる」ということは禁物です。
日本も単一民族社会ではなくて多民族共生社会ですから、多様・多重・多層の相違性・特殊性・意外性への柔軟な感受性を育むことが大事なのです。自己と他者とがともに幸福になれる世界を哲学対話するということが21世紀の日本には何よりも必要な課題ではないかと思われるのです。
わたくしの主旨説明を終える前にもう一言。なぜ公共哲学するのか。
まず、わたくしは哲学「学」と哲学「する」を分けて考えるからです。そして従来の「み(見・視・観)て考える」哲学でもなく、「よ(読)んで説く」哲学でもなく、「き(聞・聴)いて語りあう」哲学を大事にし、それを実行していきたいからです。他者とともに・たがいに・向きあって、まず他者の呼掛けに真心・本心・誠心を込めて応答する哲学を重視すると同時に、そのような哲学する心構え・覚悟・勇気を日常平凡な生活世界における一般市民の公共する理性・感性・意志・霊性として育みあうことに一意専心したいからです。
公共哲学とは公共する哲学です。公共するとは他者とともに対話する・共働する・開新する(新しい地平を切り拓く)ということです。ですから、公共哲学とは、別の言い方をすれば、他者とともに対話する哲学であり、共働する哲学であり、開新する哲学です。その基本は、「はじめに対話(共働・開新)ありきの確信」に基づいた公私共媒知であります。公共哲学とは誰か―それが聖人君子であっても―ひとりの人間の人生観・世界観・価値観を一方的に伝達したり・受容したり・教条化することではありません。そのようなものをわたくしは「私」哲学と呼んでいます。「私」哲学の基本は「眞我(はじめに自我ありき)のこころとからだを内側から省察する」ということです。己事究明の心身内観を主軸とする哲学です。「私」哲学には「滅私」の哲学と「活私」の哲学があります。「私」哲学には素晴しいものがあります。しかし、どんなに素晴しくても、「私」哲学は「私」哲学です。
それと対比されるのが「公」哲学です。「公」哲学とは、国家・政府・体制を正当化し、それを構成員全体に教え込み、それに基づいて同一化・統合化・一体化をはかる哲学であります。「公」哲学の基本は「全体(はじめに全体ありき)の認従」です。全体を確定・強化・守護することです。「公」哲学とは、全体(国家)公認の制度知を基本とする「官」(制・認)哲学でもあります。誰かの「私」哲学が国家・政府・体制によって直接的また間接的に公認されますと、「公」哲学になる場合も多々あります。
改めて公共哲学とは何か。公共哲学とは普通の市民と市民の・による・のための・とともにする知・徳・行の連動変革をめざす民知養育です。「公私相生」をはかる共媒知を目指します。大学の講義室だけではなく、いつでも・どこでも・どんなかたちでも公共することに関心をもち、その必要性を感じ、時間と資源を使う意志がある人々が時と場と気を共にし、そこで自分とは意見・立場・目標が相異なる他者たちと真摯な対話・共働・開新を試みるというのが、公共哲学の想定する基本姿勢です。
1990年の来日以来、わたくしは日本学習を続けてまいりました。そこで一つ感じたことがあります。日本には会話はたくさんあっても対話が非常にすく(少・尠・寡)ないということです。しかし、本当の対話があってこそ、家庭も会社も団体も組織もそして国家も生き生きするのではありませんか。人と人とが、自己と他者とが、出会い・交わり・語りあうなかから共働と開新への動機・心情・覚醒が生じ、それが実践・実行・活動につながると思いますがどうでしょうか。 |