ICBL の創設
対人地雷全面禁止条約を締結に導いたICBLという国際NGOについて、少し詳しく紹介しておこう。
1991年、カンボジアやエルサルバドルで地雷被害者のための義肢や車椅子の支援活動をしている米国のNGO (VVAF: ベトナム戦争退役軍人アメリカ財団 ) のボビー・ミューラーと、ビアフラでの救済活動から誕生したドイツのNGO ( メディコ・インターナショナル ) のトーマス・ゲバウアーが話し合った。2人の呼びかけで、1992年10月、欧米のNGO6団体がICBL(地雷禁止国際キャンペーン ) を創設した。6 団体は以下のとおりである。
・ ベトナム戦争退役軍人アメリカ財団 (Vietnam Veterans of American Foundation 、米 )
・ メディコ・インターナショナル (medico international 、独 )
・ ヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW: Human Rights Watch 、米国)
・ ハンディキャップ・インターナショナル ( HI: Handicap International 、仏 )
・ 人権のための医師団 ( PHR: Physicians for Human Rights 、米 )
・ 地雷顧問団 ( MAG: Mines Advisory Group 、英 )
ICBLの事務局担当者 ( コーディネーター ) にはジョディ・ウィリアムズが就いた。このネットワークは、映画『亀も空を飛ぶ』の時代設定である2003年には、 1300を超える団体が参加する、世界最大のNGOネットワークに発展していた。
条約成立への交渉プロセス
地雷問題を議論する国際会議の場としては、すでにジュネーブ軍縮会議が設置されていた。1980 年にはCCW ( 特定通常兵器使用禁止・制限条約 )* が締結され、地雷問題の規定も明文化されていた。しかしCCWは、「地雷の民間人への無差別使用の禁止」を規定しているものの、条約の履行・監視などに関する規定がなく、実効面からは欠陥条約であった。
*CCW: Convention on Conventional Weapons :条約の正式名称は、「過度に傷害を与え又は無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止又は制限に関する条約」
ICBLはこの条約の再検討に向けた働きかけを開始し、1993年の国連総会でCCW再検討会議の開催決議を得ることに成功した。一連の専門家委員会を経て、1995 年9月末から 10月初めにかけて、CCW再検討会議がウィーンで開催された。しかし、対人地雷の全面禁止に消極的な国が多く、交渉は難航、結局中途半端な規定に止まり、再検討は失敗に終わった。この会議の失敗を受けて、オタワ・プロセスが始まる。
1996年5月3日、カナダ政府とICBLはジュネーブで共同記者会見を開き、同年秋に「対人地雷国際戦略会議」を開催することを発表した。ここから、ICBLというNGOとその主張に賛成する特定国政府(カナダ等)との協働による新しい国際条約の締結プロセスが開始したのである。
1996年10月3日から5 日まで、オタワにおいて、カナダ政府の呼びかけで「対人地雷全面禁止に向けた国際戦略会議」 ( オタワ会議 ) が開催され、 EU( 欧州連合 )15カ国、米国、日本など50カ国が出席した。また、オブザーバーとして、ロシアやインドなど24カ国と、赤十字国際委員会やユニセフなどのいくつかの国際機関が参加した。
この会議で、主催者のカナダのアスクワージー外相は、いくつかの歴史的アプローチを明示した。
@ 「自己選択方式」:賛成する国だけ集まれ」という姿勢:
対人地雷全面的禁止の早期合意に向けて具体的な行動の採択に同意する用意があること、国内でも全面禁止を履行することを、参加資格とした。この条件を持つ国のみが、参加できる。
A 新しい交渉の場の開発
CCW やジュネーブ軍縮条約という国際機関の場でもなく、国連の場でもなく、カナダを中心とする全面禁止に賛成する「中核国」と、市民社会の国際ネットワークであるNGO( ICBL )との協働で、この会議を推進していく。
B 目標期限の明示
1年 2カ月後の1997年12月までに、全面禁止条約の署名式を行うことを、どの国にも事前通告なく明示した。このような目標期限の明示は、国際会議では前代未聞のことであった。
C NGOの正式参加――発言権の保障
ICBLが正式オブザーバーとして会議に出席し、発言権をもつことになった。「我々をこの会議に導いたのはICBLである」とアスクワージーは明言し、ICBLは 9 名の代表団を組んで出席した。また、いくつかの政府代表団に、ICBL参加のNGOに所属する個人が専門家として加わっていた。
これらの方針に基づき、対人地雷についての、「例外なし、留保なし、抜け穴なし」の全面禁止を求める多国間条約の成立へ向けた外交会議が精力的に開催されていった。
まず、ICBLの主張に賛成し、オタワ・プロセスの推進に力を貸す「中核国」が、1997年2月に第 1 回の会合をもった。カナダの他に、欧州諸国からは、ノルウェー、オランダ、ベルギー、オーストリア、スイス、ドイツ、アイルランド、開発途上国からは南アフリカ、メキシコ、フィリピンの 11カ国が出席した。以後、会議のたびに「中核国」は増えていった。
1997年 2月、本格交渉のための会議がウィーンで開催され、 111カ国が参集した。4月にはボンで、6月にはブラッセルで、そして最後は9月にオスロで、条約案が完成されていった。会議の開催のたびに加速度的に参加国が増していった。こうして 1997年12月3 日、オタワで、160カ国が参加した条約署名式が行なわれた。
ICBLのキャンペーン活動は急速に世界に広がり、国連決議をもたらし、会議ごとに参加国を急速に増やし、条約成立へのモメンタムを造り上げていった。ダイアナ元皇太子妃も、この機運を盛り上げるにあたって大きな役割を果たした一人であった。
この条約は、 1 年2カ月という記録的な速さで成立した。これほど短期間で締結された多国間条約は他にない。 |