3.非暴力直接行動主義――市民社会力(NGOの力)
冒頭でも紹介したとおり、クライマックスでは、ザラストロ軍が武器を置いて走っていく。「非暴力直接行動主義」の力強さを感じさせるシーンである。この 映画版『魔笛』は、「9条」の意味を描いた映画であると同時に、「非暴力直接行動主義」を描いた映画である。
映画『魔笛』を堪能し、心に強く残る映画となったことを長々と書いてきたが、本稿の目的である「映画とNGO」の観点について、やっとこれから書くこ とになる。
NGOの活動と目的は多様で柔軟であるが、その行動理念は一つに集約される。それが「非暴力直接行動主義」である。暴力主義や革命を標榜するものはいわゆる市民社会団体としてのNGOとは定義されない。「人命に対して非暴力」という 狭義の 捉え方から、人命だけでなく、生きとし生けるものすべてに対して暴力を拒否する広い捉え方まであ り、 後者の考え方では、動物の虐待のみならず、動物の権利を主張する考え方まで及ぶことになる。 しかし、「非暴力」という根幹の理念は共通している。
非暴力主義はそもそも古代から先住民の思想の中に存在してきた。米国先住民のイロコイ族の平和主義はとくに有名であるし(星川淳『魂の民主主義――北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法』築地書館、 2005 )、沖縄に 住む人々に も伝統文化として絶対平和主義が 受け継がれている。
近代にな って、非暴力直接行動主義を確立したのは、インドを独立に導いたマハトマ・ガンディである。ガンディの思想と行動は、米国の公民権運動を指導したマーチン・ルーサー・キング・ジュニア( 1964 年にノーベル平和賞受賞)や、中国からの独立運動と平和国家建設の思想を打ち立てたチベットのダライ・ラマ一四世( 1989 年にノーベル平和賞受賞)へ受け継がれ、非暴力直接行動主義は近代社会のよき伝統となり、人類が獲得した理性的変革の手段として定着してきた。
現代日本では、沖縄・伊江島の阿波根昌鴻( 1901 〜 2002 )を非暴力主義の指導者として位置づけられるだろう。彼は沖縄の米軍に対する土地回復・基地反対闘争において、非暴力の思想を積極的に取り入れた。伊江島の農民の人々が策定した『陳情規定』はその闘いの中から作られてきたものだが、徹底した非暴力主義が込められたものとなっている。阿波根昌鴻の自宅敷地内に建てられた反戦平和資料館「ヌチ ドゥタカラの家」( 1984 年 12 月開館)の壁に今もそれは書かれている。
『陳情規定』
一.アメリカ軍と話しをするときは、なるべく大勢の中で何も手に持たないで、必ず座って話すこと。
一.耳よりも上に手を挙げないこと。
一、決して短気をおこしたり、相手の悪口は言わないこと。
一、うそ、いつわりのことを言わないこと。
一、布令布告によらず、道理と誠意をもって幼い子供を導いていく態度で話すこと
一、沖縄人同志はいかなることがあっても決してケンカはしない
一、私たちは挑発にのらないため、今後も常にこの規定を守りましょう。
1954年10月13日
阿波根が書いている本からさらに付け加えれば(『米軍と農民』岩波新書、 1973 年、『命こそ宝――沖縄反戦の心』岩波新書、 1992 年):
一.人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
ガンディにとって、「非暴力」とは「直接行動」なしには意味をもたない。 彼は 「直接行動的な表現なしには、非暴力は私たちの心にとって無意味です。それはこの世において、最も偉大な、最も行動的な力で す。人は消極的には非暴力であることはできません」と 語っている。
日本では非暴力は受け入れても、「直接行動」には否定的な空気が強い。まして非合法な場合はなおさらである。抵抗運動のためのデモに対する禁止や規制などは権力者側が法律で決めている。合法であることに焦点を合わせていると、デモすらできない状況に置かれてしまうことになる。 上記の 阿波根たちの『布令布告によらず』という表現は、まさに その点を指摘しているのである。
「非暴力主義」 は、単に暴力を否定するから非暴力というのではなく、非暴力による現場での直接的な行動によって、権力者側が話し合いに応ぜざるを得ない状況、対応せざるを得ない状況を作り出していくことを意味している。「非暴力直接行動によって、民衆が権力を逆規定していくことにこそ核心」(酒 井隆史『暴力の哲学』河出書房新社、 2004 年)があるのである。
もう一つ、重要な点は、非暴 力直接行動は人間に対する信頼を前提としている運動であるということである。非暴力であるからといって、権力者側の規定によれば非合法の抵抗行為である。銃で撃たれ殺されることになるかもしれない。戦車の前に寝ころがれば、戦車は自分を轢いて行ってしまうかもしれないのである。戦車は自分を轢かず、自分の前で止まるだろうという信頼が前提となっている。この信頼は人類の歴史が獲得してきた歴史への信頼感ともいえるし、警察も「市民」である という市民社会への信頼感ともいえる。つまり、非暴力直接行動主義が機能するかどうかは、「市民社会国家」の証明ともいえるので ある。信頼の全くない野蛮な世界では非暴力直接行動は機能しない恐れがある。魔笛を掲げて前に進んでいく二人。兵士たちが武器を地に置く姿が次々と映しだされる。人々の視線。その中では、闇の女王は武力攻撃ができなかった。
戦争の現場は醜い。弾丸が行き交うことがなくても、人権抑圧、環境破壊の現場は、一様に醜い。しかしそこから目を背けて厭世的になるのではなく、その場所に直接に出かけ、行動し、連帯の輪を広げていく。それこそが、NGOの姿である。
ブラナーの『魔笛 』は、非暴力主義を人間が理解するようになった近代を舞台にしている。人類 はこの水準までは「進歩」してきたのである。21世紀にどの方向に進むのか。それは、全ての人間にとっての主体的課題である。
*長坂寿久(ながさかとしひさ)の映画評論の本:『映画で読む21世紀』明石書店、 2004 年、『映画、見てますか。 Part 2』文藝春秋社、 1996 年、『映画、見てますか』文藝春秋社、 1990 年(『映画で読むアメリカ』朝日文庫で再版、 1995 年)。 |