7.失語症の政治家たち
一方、 日本の政治家 たちの言葉とはなぜこんなに貧弱なのだろうか。しかも失言も多い。麻生外務大臣のアルツハイマー発言はもとより、柳沢厚労相の「女性は子どもを生む機械」発言、久間元防衛相の「 ( 日本への原爆投下は ) しょうがなかった」発言など枚挙に暇がない。こうした失言の数々に共通しているのは、私的な親密圏での言表をそのまま公共圏に持ち込んでしまっているということだ。
居酒屋で酒を飲んでいるサラリーマンが上司の悪口の後で、ついうっかり口にしてしまう ( そう思い込んでいる場合もあるし、 2 ちゃんねる的な確信犯の場合もあるが ) 「私的領域」の言表と同レベルのものである。公的な立場で発言すべき政治家たちの中に「公」と「私」の区別さえ理解していない人たちがいるというのは驚くべきことだ。
これまでに何度か「国民的議論の場を創り出すのがマスメディアの役割ではないか」と指摘してきたが、国民的議論の場とは意見や立場の相違や多様性を認め合い、マイノリティや小規模集団、社会的弱者の視点を失わず、公正な立場で議論を戦わせる場のことだと理解している。恐らくそれが、新しい「公共圏」を切り拓くという意味での「市民社会」創出の原理ではないかと思う。日常的な消費行動の中に埋没してしまった人間の「個性」や「独自性」を家畜の群れの中から解き放ち、自律した個を形成するというのが本来、メディアの果たすべき役割のはずだ。
公共圏では「無責任な発言」などというものは存在しない。公的な立場にある政治家が ( 自宅や居酒屋でない ) 公共の場で発言した言葉は撤回することができない。「真意を理解してもらえなかった」「お騒がせして申し訳ない」という政治家の弁明をよく耳にするが、元来、公共の場ではこの言葉は通用しない。そうした言葉で決着を付けようとする政治家も、それで矛先を収めてしまうマスメディアも、批判的精神に基づく公正な「言論の場」への理解が不足しているのではないか 。
「失言」をした政治家は発言の真意が国民に理解されるまで語り続けなければならない。もしそれで自分の発言が間違いだったことに気付いたのならば、その発言を修正し、間違えた理由を自己批判すれば済む話だ。
ところでこうした安倍内閣の閣僚たちの不用意な失言の背景には、任命責任者である安倍氏自身の「思い切った発言」があるように思えてならない。著書「美しい国へ」 ( 文春新書 ) で安倍氏は「闘う政治家」と「闘わない政治家」を区別している。闘う政治家とは「批判を恐れずに行動する政治家」のことである。自ら「保守主義」という立場を鮮明にしているのも闘うことの一つだ。だから憲法問題でも「 ( 憲法前文は ) 列強の国々から褒めてもらえるように頑張ります、という妙にへりくだった文言」であるとか「憲法草案は若手 GHQ スタッフによって10 日間そこそこで書き上げられた」といった「思い切った発言」が随所に見られる。閣僚たちは安倍氏を見習って“思い切って”本音で語ったところ、とんでもない失言としてマスメディアの餌食になっただけなのかも知れない。
そもそも「美しい国」とは何かについて安倍氏は多くを語っていない。ここにも失語症の症状が見え隠れしている。著書の中には「わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国」と書かれているだけだ。
実は「美」という文字には自己犠牲の構造が含まれているということをご存知だろうか。日本の美学の大家といわれる元東大教授の今道友信氏が「美について」 ( 講談社 ) という著書の中でこう書いている。漢字の「美」は「羊」が大きいという構造を持っており、この場合の「羊」は「論語」に出てくる「月初めの祭儀に、天に捧げる犠牲の獣としての羊」を意味している。だから、大きな自己犠牲を意味する美と心が結びついた「美しい心」は「他人のために己の命を捧げても悔いないという心」 ( 同書 ) を意味するのだそうだ。
安倍氏がこうした「美」という言葉の持つ意味を熟知した上で「美しい国」というキャッチフレーズを使っているとは思えない。ただ、安倍氏は著書の中で太平洋戦争末期の特攻隊員の日記を引き合いにして「 ( 自分の命を ) なげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」 ( 「美しい国」 P108) と読者に問い掛けている。何という見事な符号だろう。
「美しい国」が「国のために命を捧げる」という戦前型の国家観を意味しているとは思いたくない。そのためにも、首相には「美しい国とは何か」について明確な言葉で語ってもらいたいと思う。
( 註 1) ベルナール・スティグレール「欲望、文化産業、個人」 ( ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版 2005 年 6 月号、逸見龍生訳 )
( 註 2) フランスの哲学者ミシェル・フーコーのディスクール ( 言説 ) については、「フーコー・ガイドブック」 ( 筑摩書房 ) が分かりやすい。同書は、「じっさいに実現された言語活動としての < 言われたこと > ・ < 書かれたこと > の集合を指す。個々の < 言われたこと > ・ < 書かれたこと > は『エノンセ ( 言表 ) 』と呼ばれる。『エノンセ』は言語活動の実現の出来事である。『エノンセ』の生産に規則性をあたえ、その対象や主体、共存の場などを統御している規則性のレヴェルが『ディスクール』(であり、)ひとつの時代の文化は『ディスクール編成』から成り立っている」と説明している 。
( 註 3) セルジュ・アリミ「サルコジの狡知」 ( ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版 2007 年 6 月号、阿部幸、斎藤かぐみ訳 )
( 註 4)2007 年 4 月 19 日、マルセイユでの演説。同上より
( 註 5)2006 年 11 月 9 日、サンテティエンヌでの演説。同上より
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