1.
身体を通して理解すること
最近、「脳」に関する本がたくさん売れている。なぜだろう。
私も池谷裕二氏の『海馬は疲れない』、『進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線』、茂木 健一郎 氏のクオリアに関係する著作『意識とはなにか―「私」を生成する脳 』、『脳と仮想』、『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』などの著作を面白く読んだ。大ヒットした養老孟司氏の『バカの壁』、『唯脳論』などがブームの発端だったと考える。
身体がうまく使えるときには、その使い方にはあまり関心を持たない。ところが、病気になったり身体が不調になったりすると、人は自分の身体に関心を持つようになる。たとえば、野球選手はスランプになると打撃方法をいろいろ研究して自分のフォームをチェックし、改善を図ろうとする。
現役時代の王選手が自分の打撃フォームをいろいろと研究して、一本打法を編み出したことは有名である。彼が入団と同時にヒットやホームランを連発していたら、自分の打撃フォームを改良してさらによい方法を編み出すことは無かったのではないか?
同様に、わたしたちが「脳」に関心を持つのは、頭の使い方に苦労しているからであろう。考えてみればラジオが登場するまで情報は新聞か口コミで伝達されていた。ラジオが情報を伝え、テレビ番組がさまざまなニュースを届けてくれるようになった。1990年代になって、インターネットのサービスを利用して大量のデジタル情報がネットワークを介して私たちに届けられるようになってきた。携帯電話によっていつでもどこでも情報を入手することができ、情報交換することも可能になった。
このことによって、わたしたちが処理しなければならない情報が飛躍的に増大した。仕事でパソコンを使い、自分の生活でもパソコンを使って大量な情報を処理している。新聞の厚さはどんどん増して、テレビのチャネルがさらに増えていく。このことが「情報の整理術」「捨てる技術」などの著書が売れるようになっている。多種多様な情報がわたしたちの周りをあふれかえっている。
増大する情報をどのように処理してよいか困り果てているのが、今のわたしたちではないのだろうか。「脳」の本のブームの背後には、あふれる情報にこのように困り果てたわたしたちがいるのではないか。
「脳」に関する本には、身体と脳との関係を説明したものがある。脳が身体の働きとの相互作用によって変化することが強調されている。とくに、言語が重要であり言語による情報交換であるコミュニケーションが決め手になる。この情報交換の手段が多様になり、その量がわたしたちの処理範囲を超えてきたことが問題である。
IT技術による情報機器の発達によって、機器による情報交換にたよりがちだが、それでよいのだろうか。学生にレポートを課すと、多くの学生はインターネットによって情報を集め、それを編集してレポートにまとめる。情報の評価能力の習熟度によって、レポートの出来は大きく異なるのであるが、そもそもインターネットの情報だけでよいのだろうか。
現在、学生にフィールドワークという授業を行っている。そこでは、インターネットを介した情報収集も行うが、主眼は自分の身を現場に置いて、そこから見聞きしたことをもとに自分のテーマを掘り下げることにある。この能力が意外に重要である。現場に身を置くことで、360度を見渡すことができる。匂いを感じ取ることもできる。雑音も含めてさまざまな音があふれていて、多種多様な情報がころがっている。さらに対話によって、理解を深めていくことができる。
わたしたちは、座学によって学習しようとしたとき、辞書やテキストに解答があり、その解答を自分の頭に叩き込むことを学習と考えることがある。わたしは、知とは自分と対象の間、自分と相手の間にあるのであって、それを引き出すことが対話なのだと考える。いわば、間人間性が重要であって、相手が解答をもっていてそれを引き出すのではないということである。
フィールドワークで重要なのは、対象との対話の中から新しい知を想像していくことにあるわけである。そのためには、その場に身を置き、そこから身体全体を通じて情報を取得することが必要になる。インターネットはとても有用な武器であり、それを縦横無尽に使いこなす技術も重要である。
ITによる情報収集に卓越すればするほど、身体で理解することに重要性が高まることになる。2つの武器を使いこなす「宮本武蔵の二刀流」をバランスよく身につけることが今求められているのではないか。
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