2. 近代国家システムの限界と新たな理念としての憲法九条
オランダは、世界が近代へ向かう最初の宗教革命、最初の議会革命、最初の自由革命をもたらした国である。さらに重要なことに、オランダはその後の欧州・世界の哲学の起源となる「寛容の哲学」を育むことになった。
ピエール・ベールをはじめとして、スピノザ、デカルト、ジョン・ロックなど、17世紀のオランダの黄金時代に、「寛容の哲学」がこの国で育まれた。彼らの思考の原点となったのが、寛容の精神に基づき宗教の自由が初めて条文に謳われた「ヘントの和平条約」であった。
「国家」は、住民の国籍を整え、税金を課し、その対価として兵力を整備して国民を保護するというシステムを造り上げた。さらに国家(政府)は国民を強制する立法権を独占した。こうして国家は、「自衛」の名において軍事力をもち、実際的には他国を侵略しうる武力をもつことを、国造りの「目標」として走り始めた。国家は暴力を独占する存在となり、武力こそが国家の条件となった。近代国家とは、システムそのものが戦争の動機を胚胎しているともいえる。このシステムの下で戦争の絶えることがない理由はここにある。
しかし他方、暴力の独占体となり、暴力(戦争)をふるう仕組みを構造的に内包しながらも、近代国家は運営基盤に一つの歯止めをもっていた。それがヘントの和平条約である。宗教の自由を契機とする、「自由・平和」の理念と理想の追求である。ヘントの和平条約の理念・理想が、その後の国家システムの基盤・目標として現実的な影響を与え続けてきた。
その後も、権力と武力を独占する国家は、常に暴力的(戦争)となりがちではあったが、他方では「自由と平和」を追求する姿勢だけはとろうとしてきた。ヘントの和平条約の先駆的理念・理想が、国家の暴力の歯止めとなってきた。
第一次世界大戦、第二次世界大戦の経験を経て、自由と平和、つまり人権を求める思想・哲学が発達し、ヘントの和平条約を超える多くの平和を求める条約が調印・締結されてきた。中で、第二次世界大戦終結時点での平和追求の成果は国連憲章として明文化されることになった。国連憲章は、国家が暴力機構を独占的に保有するものとしての近代国家システムを前提としつつも、しかしヘントの和平条約以来の自由と平和、人権の思想について、われわれ人類が多くの血を流して獲得してきたものを成果としてまとめたものであるといえよう。
戦後の同じ時に、国連憲章を超える先駆性をもつ条文が一つ世界に登場した。日本国憲法九条(戦争の放棄)である。憲法九条は、その第1項では「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定している。国連憲章の内容とこの第 1項の水準はほぼ等しい。そして、この域に達するよう、その後多くの国の憲法がこの方向に向かって改正されてきている。
特筆すべきは第2項である。第2項は「前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している。戦力の不保持を規定したこの条文は、戦後60年たっても、まだ国際的には広く認知されていないし、国連も今後の方向性として決議するに至っていない。なぜならば、この条項は、「超近代国家」の時代を目指した世界史的に先駆的な規定であるからである。
第二次世界大戦後は世界状況の変化の中で国益の意味するものが変容してきている。必然的に、国家システムもそれにともなった変化が求められるはずであるのに、依然として近代国家の時の概念のまま21世紀を迎えている。
国連はすでに半世紀以上にわたり存在してきた。国連の役割はかつてないほど重要になってきてはいる。しかし、アナン事務総長の呼びかけで設立された国際的な市民社会ネットワークである「武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ」(GPPAC)は、次のように報告している。
「国連が存在したこの半世紀以上にわたり、戦争の惨害を抑止することがきわめて困難であることがはっきりしてきました。既存のメカニズムは不適当であるということも明らかになりました。私たちは、核による人類滅亡という事態は避けることができましたが、冷戦は、世界のもっとも貧しい地域で破壊的な紛争を生み出しました。ソビエト連邦の崩壊後に現われるかと考えられた新世界秩序はまたたくまに崩れ去り、あちこちで内戦が発生しています。」そうした今日の紛争による犠牲者の90%は民間人となっている。
今世紀に入って、新しい世界システムの構築への模索、「国家」概念の変容などが明らかになっていくに従い、憲法九条の先駆性は新たな意味を持ち、その重みを増しつつある。憲法九条は、430年前のヘントの和平条約の先駆性に比肩する意味をもち始めたといえるのである。
憲法九条は、日本において現実に武装化・戦争化への強力な抑止力となっていると同時に、21世紀に人類が到達すべき理想・目標を指し示している。その意味において、憲法九条は、近代国家システムを超えた新しい世界システムの構築への理念・目標となっていくという世界史的役割を果たす可能性を持っている。 |