1.寛容性の王国
セシリア氏は「『寛容性の王国』とみられてきたオランダで起きた殺人事件はオランダ国内の共同体間に緊張を生じさせた。だが、イスラムの排斥か擁護かという議論に終始するならば、移民をトラブルや不安定要素としてみるだけで、彼らが不公平な社会システムの犠牲者であるという点を見落とす恐れがある」と指摘する。
現在、オランダの人口約1600万人のうち、5.7%に当たる92万人がイスラム教徒で、その過半数がトルコ系とモロッコ系だという。元来、オランダは19世紀にカトリック教徒、ユダヤ教徒、カルヴァン派以外のプロテスタントなどマイノリティの自由を認めることで、平和的共存を実現したヨーロッパでは類のない国だ。だからイスラム教徒もオランダの「柱状化」と呼ばれる、国家と教会の多元主義的なモデルの中に組み込まれてきた。マイノリティの存在や行動を許容するオランダが「寛容性の王国」といわれるのも当然だった。
そもそも寛容性とは、ヨーロッパでは宗教や政治の側面で語られてきた。ヨーロッパで寛容政策が制度として認められたのは、フランス国王アンリ4世が1598年に発布したナントの勅令が最初だ。フランスの新教徒ユグノー(カルヴァン派新教徒)に信仰の自由を認めたもので、これによって新教徒と旧教徒が32年にわたって戦ってきた宗教戦争(ユグノー戦争)は決着した。こうした宗教的寛容性の歴史が近代国家における信仰の自由の思想的基盤をなしているといえる。
宗教的寛容性や信仰の自由が実現していく過程は、同時に、国民の政治的権利の獲得をも意味し、宗派や個人の権利、平等、自由といった民主主義国家の原理が形成されていく過程でもあった。17世紀にはイギリスのロックが、18世紀にはフランスのヴォルテールが「寛容論」を書いている。ヴォルテールの寛容論とは、一言で言えば、どんなに賛成できない意見や立場であろうが、それを発言し、表明する自由は決して奪わない、というものだ。ロックも何らかの見解の公表を禁じること、何らかの見解を否認したり、撤回するように強いることを非寛容の実例として挙げ、「強制は人の心を変えることはできない。」と述べている
日本では明治以前には宗教的寛容性が問題になることはなかった。わずかにキリシタンが勢力を得ようとしたが、徹底した弾圧によってほぼ絶滅してしまっている。明治憲法は信仰の自由を認めたと言われるが、実際には国家神道を前提にしており、国家体制に抵触するような新興宗教などは弾圧されている。戦後の憲法では確かに、思想、信仰の自由が明文化されている。だが、現在でさえ、思想的な寛容性が日本で真面目に受けとめられているとは思えない。
イラクで人質になった日本人が非寛容で無能な政治家や一部のマスコミ、それに2チャンネル好きの無責任な国民に批判されたことがあった。また、自分たちと考え方が違うという理由で番組内容の改編を求めた与党幹部もいた。『自己責任論』をめぐって、フランスのメディアは「死刑制度の残る奇妙な国の政治家」の発言を一笑に付した。番組改編問題ではその奇妙な国の政治家たちによる「検閲」とはっきり書いた。そのうえで「NHKはBBCになれるのか?」と揶揄した。 |