多田銀山の歴史と鉱物採集
ズリを登り、「大露頭」へ 多田銀山代官所跡

 猪名川町に、旧多田銀山がある。残されたズリから鉱物を採集しようと、この春に中学を卒業したばかりの科学者の卵、中塚君・焼山君・正木君と共に出かけた。

多田銀山の歴史は古く、天平年間に東大寺の大仏鋳造のために銅を献上したという記録がある。1570年には豊臣秀吉によって大きく開発され、豊臣家の財政を賄ったと伝えられている。江戸時代に入ると銀山周辺は天領となり、大口間歩を中心に開発されて代官所も設置された。明治になると三菱が稼行し、昭和24年(1959年)からは日本鉱業が採鉱を行い、昭和48年(1973年)まで操業を行った。今でも、各時代の坑道や採掘場、あるいは施設の跡が残り、往時の繁栄を偲ぶことができる。

現在、この銀山跡は「歴史浪漫の里 銀山」と銘うたれ、史跡として整備されている。後日、この日見逃した代官所跡を訪れた。銀山橋を渡り、高札場跡の前の小道を下ると、平坦地が広がっていた。ここが代官所跡で、全盛を極めた徳川時代に銀山の役所が立ち並んでいたところである。寛文4年(1664年)には、銀が5,625kg、銅が453t産出したという。明治に役所が廃止となった後は、鉱夫等の居住地や畑地に転用された。
 代官所跡を歩いてみた。当時の面影は一掃され、タチツボスミレやハクサンハタザオの咲く草地の上に、桜の花びらが散り敷いていた。


多田銀山の案内図

ジャリ池周辺のズリで鉱物採集
土の中からズリ石をかき出す
  
 多田銀山は、広根から入るのが普通であるが、今回は北東の南田原から入った。南田原の集落を抜けて西へ走ると青ノ池に達した。ここから銀山へは、谷沿いに山道が「近畿自然歩道」として整備されている。

道の横を流れる小沢には、黒色頁岩の露頭がときどき現れている。これは、超丹波帯の長尾山層の地層である。道が沢に沿って北へ大きく曲がった地点で、岩石は変質した火山礫凝灰岩に変わった。これは、有馬層群の玉瀬層の岩石であり、銀山周辺はこの玉瀬層の火山礫凝灰岩や溶結凝灰岩、あるいはこれらを貫く石英斑岩や流紋岩が分布している。

先に進むと、鉱物採集の目的地「ジャリ池」に達した。谷は広く小石におおわれているが、これらは「石金ひ」のズリ石なのである。 ※ ひ……「金」へんに「通」と書く。鉱脈のことをいう。

早速、鉱物採集を開始する。石の表面に、緑色の孔雀石、青緑色の青鉛鉱がついているのがすぐに見つかった。石を割ってみると、中から黄銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱がでてきた。

あまり見栄えのするものはない。有名な産地なので、それらは採りつくされているのかもしれない。しかし、帰りに再びチャレンジしたとき、生徒たちは採集のコツを見つけた。地表の石を探すのではなく、土にうずもれた石を探すのである。地下には、いいものがいくらか残されていた。わざわざここまでついてきた三人だけあって、粘り強く地面を掘って鉱物を探していた。
 

多田銀山中心部、大露頭と台所間歩・瓢箪間歩
大露頭に切り立つ石英脈
 
台所間歩の坑口
 
瓢箪間歩の坑口
 ジャリ池を後にして道を進み小さな峠を越えると、中池の前で農道に出た(標高184m地点)。ここから南へ、銀山の中心部をめざす。

石垣が残る日本鉱業事務所跡の上に、「大露頭」が見えた。「大露頭」の下の斜面にはズリ石が残っている。ここで、カラミを一つ見つけた。 ※ カラミ……鉱石を精錬したときに出るカスで、鉱滓(こうさい)ともいう。

 ズリ石の斜面をそのまま上り、「大露頭」の前に出た。露頭の岩石は、溶結火山礫凝灰岩。石英・長石の結晶片を含み、一部で強く溶結している。これに、緑色の流紋岩が貫入し、さらに数本の石英脈がそれらを貫いていた。もっとも大規模な石英脈は、厚さが3m弱あって、母岩から切り立って現れている。石英脈の中に「銀黒」と呼ばれている部分を探していると、三人の生徒はこの石英脈の上を登っていった。 ※ 銀黒……石英脈中の銀鉱物に富む細い帯。

この大露頭を回りこんだところにあるのが、「台所間歩」である。豊臣時代、ここから産出した銀・銅で大坂城の台所をまかなう、すなわち政権の経済を支えたことからこう呼ばれた。坑道の入り口は、半ば埋もれながらもまだ開いていた。 ※ 間歩……「まぶ」と読む。坑道のこと。

 「台所間歩」から沢沿いの道を100m程先に進むと、「瓢箪間歩」の坑口があった。「瓢箪間歩」は、山先(鉱山技師)の原丹波・原淡路親子がこの鉱脈を発見したほうびとして、秀吉から馬印の千成瓢箪を与えられ、これを坑口に立てたことから名付けられた。坑口の岩石は、緑褐色の泥岩。これを一辺2m程度の大きさで四角く穴が開けられていた。
 
 「台所間歩」や「瓢箪間歩」は、「瓢箪ひ(ひょうたんひ)」と呼ばれている鉱脈に沿って掘られた坑道である。「瓢箪ひ」は多田銀山の主要な鉱脈として、最後まで稼行の対象となった。主な鉱石鉱物は、斑銅鉱・黄銅鉱・自然銀・輝銀鉱、その他の銀鉱物である。 ※ 多田鉱山は、熱水性鉱脈鉱床であり、高温の熱水溶液からの沈殿、あるいは交代作用によってできた鉱床である。
 

公開されている青木間歩
青木間歩へ入る
 
青木間歩の下の小川で見つけたカラミ
 

さらに南に下ると、戦後、日本鉱業が機械掘りした「青木間歩」がある。野尻川に架かる小さな橋を渡たると、「青木間歩」の入り口である。「青木間歩」には照明設備があって、9時から17時まで中を見学することができる。みんなで中に入ってみた。岩石は、石英や長石の結晶片を多く含む緑灰色の流紋岩質溶結凝灰岩(有馬層群玉瀬層)。坑道が立体的に枝分かれしたようすや削岩機によって掘られた穴などを観察することができた。
 この坑道の上には、手掘りで掘られた採掘跡も残されている。

 見学を終えて再び野尻川を渡ろうとしたとき、河床にカラミを見つけた。融けた跡も生々しく、持ち上げるとずっしりと重かった。
 

多田銀山で採集した鉱物
青鉛鉱(実体顕微鏡下、横9mm)
 銅の二次鉱物。岩石の表面に皮膜状についている。一部で、柱状の結晶面が表れている。孔雀石をともなっていることが多かった。
 
方鉛鉱(実体顕微鏡下、横5mm)
 金属光沢と立方体の劈開(へきかい)が特徴。石英脈中に産出している。閃亜鉛鉱をともなっていた。
 
閃亜鉛鉱(実体顕微鏡下、横6mm)
 透明感のある褐色の閃亜鉛鉱で、いわゆる「べっこう亜鉛」である。写真では分からないが、金属光沢を有している。石英脈中に産している。
 
黄銅鉱(標本 横32mm)
 岩石の割れ目に、皮膜状にできている。方鉛鉱をともなっている。

 
斑銅鉱(標本 横44mm)
 斑銅鉱は、多田銀山を代表する鉱物の一つであるが、採集できなかった。これは、「松内ミネラルコレクション」で松内茂館長からいただいた標本である。
 表面は青紫色に変色しているが、端を打ち欠いてみると斑銅鉱特有の赤銅色が表れた(写真左上)。表面の一部に黄銅鉱をともなっている。
モットリアム石(実体顕微鏡下、横13mm)
 多田銀山の千本鉱口から産出したもので、これも「松内ミネラルコレクション」でいただいた標本である。バナジウムを含むウグイス色の珍しい鉱物で、皮膜状についている。
 

■岩石地質■ 後期白亜紀 有馬層群玉瀬層 流紋岩質溶結火山礫凝灰岩など(母岩)
■ 場 所 ■ 猪名川町 25000図=「武田尾」
■探訪日時■ 2005年3月27日

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