先  山   (448m)       洲本市                   25000図=「都志」
江戸期の名山は、シイの森に包まれて

谷文晁の描いた先山
住谷雄幸著『江戸百名山図譜』(1995)より引用
上内膳から望む先山

 江戸時代の文化元年(1804)、谷文晁は87座の山の絵『名山図譜』を刊行した。名山といわれている山を日本全土に訪れ、山水に描いたのである(北海道の山は弟、谷元旦のスケッチを元にして描いたといわれている)。その87座の中に、淡路島の先山(せんざん)が含まれている。
 文晁は、紀州から眺めた先山を、さざ波の海面に帆船の浮かぶ大阪湾を隔てて描いた。実際よりも、はるかに近く、高く、また鮮明に描かれた先山は、淡路富士と呼ばれるのにふさわしい優美な形をしている。

 真冬というのに、暖かく穏やかな日だった。空には、羊雲が一日中、濃くなったり薄くなったり、あるいは一片一片が離れたりくっついたりしながら浮かんでいた。上内膳のネギや大根の植わった棚田の中の細道を上り、山の中に入っていった。カワラヒワやヒヨドリがにぎやかに鳴いている。
 上りの傾斜は結構きつい。先山断層という名の活断層によって隆起した山地なのである。落ち葉が敷き詰められた山道は、歩くとカサコソと音がして気持ちがよい。ドングリが落ち葉に混じって落ちている。落ち葉の中から顔を出したジャノヒゲが青い実を付けている。

スダジイの老木
 豊かな照葉樹の森であった。
 アラカシやクヌギにカゴノキやヤマモモが混じり、高くなるに従ってウバメガシが増えてくる。下層には、カクレミノ、ヤブニッケイ、コバノミツバツツジ、モチツツジ、ヤブツバキなどが生えていた。急な坂を上って、南東からの尾根と合流した地点から、しばらく平坦な道となる。その尾根の合流点に立つ十丁の標石の上部には、柔和な顔の石仏が陽刻されていた。
 この十丁の標石あたりからスダジイが現れた。スダジイは、上るほどに多くなり、また古く大きくなった。スダジイの老木の木肌は縦に深く裂け、表面はコルク状になっている。見上げれば見事な樹冠。ときどき混じる、淡灰色のなめらかな木肌のヤブニッケイも、古くて巨大である。大きな木の前に何度も立ち止まりながら、山道を上っていった。
 東からの道と合流した地点に十六丁の標石が立っていた。その地点をわずかに西に進むと石段があった。石段を半ばまで上ると、千光寺太師堂の緑青の浮き出た屋根が見えてきた。

千光寺三重宝塔
(水煙の先がこの山で一番高い)
 先山の山頂部には、樹林に埋まるようにして千光寺の堂宇が立ち並んでいた。太師堂からさらに石段を上ると、舞台と呼ばれている展望所が南に面して立っている。目の前に広がる風景は、春のような霞に包まれて、すぐ近くの低い山並みが白く重なって見えるだけである。舞台を背にして、最後の石段を上り、仁王門をくぐると本堂の建つ先山の最高所である。
 本堂の右手に、三重宝塔が美しく立っていた。左手にある鐘楼堂の鐘の音は、やわらかく山に響いた。本堂の若いお坊さんに7年前の地震について聞いてみた。本堂裏の六角堂が倒壊し、多くの石碑・石仏が倒れたという。ここまで歩いてきた境内の石段のゆがみも、地震の跡をそのままとどめていた。
 
 千光寺の縁起は、寺の開基について、為篠王(いざさおう)と狩人忠太の話を今に伝えている。播州上野の深山で、ある日、忠太は為篠王という大猪を射た。猪は、矢を負ったまま海を渡って先山に逃げた。猪を追ってこの山に入った忠太は、大杉の洞の中に赤々と光を放つ千手千眼観世音菩薩を見た。その菩薩の胸には、忠太の射た矢が刺さっていた。忠太は、名を寂忍と改めて、この山に七堂伽藍を建立し、この菩薩を安置したという。

 「国生み」神話では、イザナギ・イザナミの二神が国を創ったとき、最初にできた山がこの先山であり、それが名の由来になったとされている。深い森の中をここまで歩き、山頂の寺院の境内に佇めば、国生みの神話や千光寺開基の伝説が、今もここに息づいているように思えた。
 

山行日:2002年1月13日

山 歩 き の 記 録
行き:上内膳登山口(淡路鳴門自動車道高架下)〜十丁の石仏〜岩戸神社分岐(鳥居)〜十六丁の分岐点〜千光寺(先山山頂)
帰り:千光寺(先山山頂)〜十六丁の分岐点〜岩戸神社分岐(鳥居)〜岩戸神社〜岩戸神社分岐(鳥居)〜十六丁の分岐点〜九丁の大日不動明王〜上内膳・下内膳分岐〜上内膳集落〜十六丁の分岐点十六丁の分岐点
ジャノヒゲの実 十丁の石仏
 
 神戸淡路自動車道を洲本ICで下車。洲本ICのすぐ近くの高架下が「先山口」と呼ばれている上内膳の登山口である。ここから、地形図破線路を北へ歩いた。山麓の斜面の棚田の中につけられた、コンクリートの細い道を上っていく。傾斜が急になる地点で棚田が終わり、そこからは雑木の中に山道が続いていた。山道に入るとすぐに、「左 先山」の標石が立っていた。
 急な尾根道をどんどん上っていく。南からの尾根と合流する標高250mの地点には、石仏の陽刻された「十丁」の標石が立っていた。ここから、しばらく平坦な道となるが、やがて再び傾斜が増してくる。あたりは、見事なスダジイの森である。
 地形図の破線路合流点には、「十六丁」の標石が立つ。ここから、西へ少し進めば千光寺の石段下に辿り着く。先山の山頂は、千光寺の本堂の建つ境内である。境内をぐるりと一回りしてみたが、ここより高い地点はなかった。そうすると、三重宝塔の水煙の先が先山のてっぺんだ、などと考えたりした。
 下山時に、破線路合流点近くにある「岩戸神社」の真新しい鳥居をくぐって、その先の小径を進んでみた。鳥居から山の斜面を南西へ200mくらい緩やかに下ると、花崗岩の大岩の下に小さな祠が建っていた。先に道はないようなので、もとの合流点に戻り、ここから東尾根につけられた破線路を下っていった。「九丁」には、大日不動明王の石仏が二体立っていた。やがて、地道から広いコンクリートの階段道に変わった。
 「右上内膳 左下内膳」の分岐を、上内膳の方へ下りていった。神戸淡路自動車道の上を横切り、平地の道路を「先山口」へ帰った。
   ■山頂の岩石■ 白亜紀  領家新期花崗岩類  花崗岩

 岩戸神社の周辺に好露頭がある。岩石は、粗粒の花崗岩。石英・斜長石・アルカリ長石・黒雲母・角閃石などから成っている。アルカリ長石は、白く、ポイキリティックに他の鉱物を包有しているのが、肉眼でもよく分かる。細粒の花崗岩も近くに露出していて、粒度や鉱物比の違いによる岩相変化がかなりあるものと思われる。
 登山道にときどき露出していた岩石は、岩戸神社周辺のものと比べると優黒質で、花崗閃緑岩〜閃緑岩である。こちらの岩石も、粒度や鉱物比において、かなりの岩相変化を示している。

TOP PAGEに戻る登山記録に戻る