江戸期の名山は、シイの森に包まれて
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谷文晁の描いた先山
住谷雄幸著『江戸百名山図譜』(1995)より引用 |
上内膳から望む先山 |
江戸時代の文化元年(1804)、谷文晁は87座の山の絵『名山図譜』を刊行した。名山といわれている山を日本全土に訪れ、山水に描いたのである(北海道の山は弟、谷元旦のスケッチを元にして描いたといわれている)。その87座の中に、淡路島の先山(せんざん)が含まれている。
文晁は、紀州から眺めた先山を、さざ波の海面に帆船の浮かぶ大阪湾を隔てて描いた。実際よりも、はるかに近く、高く、また鮮明に描かれた先山は、淡路富士と呼ばれるのにふさわしい優美な形をしている。
真冬というのに、暖かく穏やかな日だった。空には、羊雲が一日中、濃くなったり薄くなったり、あるいは一片一片が離れたりくっついたりしながら浮かんでいた。上内膳のネギや大根の植わった棚田の中の細道を上り、山の中に入っていった。カワラヒワやヒヨドリがにぎやかに鳴いている。
上りの傾斜は結構きつい。先山断層という名の活断層によって隆起した山地なのである。落ち葉が敷き詰められた山道は、歩くとカサコソと音がして気持ちがよい。ドングリが落ち葉に混じって落ちている。落ち葉の中から顔を出したジャノヒゲが青い実を付けている。
スダジイの老木
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豊かな照葉樹の森であった。
アラカシやクヌギにカゴノキやヤマモモが混じり、高くなるに従ってウバメガシが増えてくる。下層には、カクレミノ、ヤブニッケイ、コバノミツバツツジ、モチツツジ、ヤブツバキなどが生えていた。急な坂を上って、南東からの尾根と合流した地点から、しばらく平坦な道となる。その尾根の合流点に立つ十丁の標石の上部には、柔和な顔の石仏が陽刻されていた。
この十丁の標石あたりからスダジイが現れた。スダジイは、上るほどに多くなり、また古く大きくなった。スダジイの老木の木肌は縦に深く裂け、表面はコルク状になっている。見上げれば見事な樹冠。ときどき混じる、淡灰色のなめらかな木肌のヤブニッケイも、古くて巨大である。大きな木の前に何度も立ち止まりながら、山道を上っていった。
東からの道と合流した地点に十六丁の標石が立っていた。その地点をわずかに西に進むと石段があった。石段を半ばまで上ると、千光寺太師堂の緑青の浮き出た屋根が見えてきた。
千光寺三重宝塔
(水煙の先がこの山で一番高い)
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先山の山頂部には、樹林に埋まるようにして千光寺の堂宇が立ち並んでいた。太師堂からさらに石段を上ると、舞台と呼ばれている展望所が南に面して立っている。目の前に広がる風景は、春のような霞に包まれて、すぐ近くの低い山並みが白く重なって見えるだけである。舞台を背にして、最後の石段を上り、仁王門をくぐると本堂の建つ先山の最高所である。
本堂の右手に、三重宝塔が美しく立っていた。左手にある鐘楼堂の鐘の音は、やわらかく山に響いた。本堂の若いお坊さんに7年前の地震について聞いてみた。本堂裏の六角堂が倒壊し、多くの石碑・石仏が倒れたという。ここまで歩いてきた境内の石段のゆがみも、地震の跡をそのままとどめていた。
千光寺の縁起は、寺の開基について、為篠王(いざさおう)と狩人忠太の話を今に伝えている。播州上野の深山で、ある日、忠太は為篠王という大猪を射た。猪は、矢を負ったまま海を渡って先山に逃げた。猪を追ってこの山に入った忠太は、大杉の洞の中に赤々と光を放つ千手千眼観世音菩薩を見た。その菩薩の胸には、忠太の射た矢が刺さっていた。忠太は、名を寂忍と改めて、この山に七堂伽藍を建立し、この菩薩を安置したという。
「国生み」神話では、イザナギ・イザナミの二神が国を創ったとき、最初にできた山がこの先山であり、それが名の由来になったとされている。深い森の中をここまで歩き、山頂の寺院の境内に佇めば、国生みの神話や千光寺開基の伝説が、今もここに息づいているように思えた。
山行日:2002年1月13日
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