石の文化を創り続ける「竜山石」
竜山石の皿とビアカップ 高砂市の竜山や伊保山の周辺には、切り立った石切場がいたる所で白っぽい岩肌を見せています。ここは、古代から今に続く石材の一大産地です。
ここから切り出される石は「竜山石」と呼ばれ(最近では「宝殿石」と呼ばれることも多い)、時代の流れと共にその用途を変えながら利用されてきました。
左は、竜山石で作られた皿とビアカップです。表面にはこの石のでき方を示す複雑な模様が表れ、緑や黄の淡い色合いが独特の味わいをかもしだしています。ビアカップにビールをつぐと、石にゆっくりとビールが染み込んでその色が濃くなってきます。そんな色の変化を眺めながらビールを飲むと、いっそうおいしくなります。
竜山石は、今からおよそ7000万年前(後期白亜紀)の火山活動によってできました。岩石としての名前は、そのでき方から「成層ハイアロクラスタイト」といいます。竜山や伊保山を歩き、竜山石を調べてみました。
写真:ストーンショップ・ギャラリー現代竜山石器「石ころRi」のビアカップとプレート ビアカップは黄竜石(4.200円)、プレートは青竜石(2.625円) 兵庫県立考古博物館で購入1、竜山石を観察すると
石切場の崖は、竜山石の大きな露頭です。少し離れてこの崖を見ると、縞模様が平行に入っていることが分かります。この縞模様は、地層の成層構造で、この地層が水のはたらきによって堆積してできたことを示しています。
近寄ってみると、詳しく観察することができます。成層したところでは、淡緑色の層の間に、濃緑色の層が数cmの厚さで平行にはさまれています。石山橋あたりの石切場では、地層の走行はほぼ東西で、北に25°傾いています。
淡緑色の部分には、数cm〜数mmの大きさの白い流紋岩の岩片が多く入っています。濃緑色の部分には、この流紋岩の岩片がほとんど含まれていません。この部分には、長石の結晶片が白く点々と含まれています。
濃緑色の層は、横に長く連続していますが、厚さが変化したり途中で途切れたりしている場合があります。また、途中で二つに分かれているようすも観察されました。
石切場の風景 石切場に見られる成層構造 石切場で採集した岩石を観察してみました。淡緑色の基質の中に、それより少し濃い緑色の流紋岩の岩片が点在しています。流紋岩の岩片は、不規則な外形をしたものとフレーク状のものがあります(最大15mm)。流紋岩の岩片と基質との境界はシャープですが、岩片の外形は複雑に入り組んでいます。
流紋岩の岩片はガラス質で、流理構造を示すものも見られます。また、石英と斜長石の斑晶を少量含んでいます。岩片は雑然と散在していますが、フレーク状のものは平行に並ぶ傾向があります。流紋岩以外に、軽石や黒色の泥岩を岩片として少量含んでいます。
基質は、細粒で緻密、石英と黄褐色に色づいた斜長石の結晶片を含んでいます。
竜山石の研磨面(写真横7cm) 2、竜山石はどのようにしてできた?
竜山石はどのようにしてできたのでしょうか。成層して堆積していることや岩石のつくりから、竜山石は水中に噴出した流紋岩溶岩が急に冷やされて粉々に壊れ、それが水流によって運搬され、その後堆積してできたと考えられます。このような岩石を、「成層ハイアロクラスタイト」といいます。
「高砂地域の歴史」(尾崎他、2003)によると、周辺地域には塊状の流紋岩、水冷によって壊された自破砕溶岩やハイアロクラスタイト、そして竜山石のように水流によって移動し再び堆積した成層ハイアロクラスタイトが分布し、それらが移り変わっているようすが観察されるということです。
竜山石ができたのは、今から約7000万年前の白亜紀後期です。このころ、西日本の各地でカルデラをつくるような大規模な火山活動が起こりました。火山は溶岩を流したり、火砕流を発生させて溶結凝灰岩などの火砕岩をつくりました。竜山石は、カルデラができた後、そこに水がたまってできた湖の底に溶岩が噴出してできたと考えられます。
成層ハイアロクラスタイトのでき方 石材としての竜山石は、その色調によって「青竜石」、「黄竜石」、「赤竜石」と分けて呼ばれています。「青竜石」は、淡い緑色で今回は石切場で見ることができました。「黄竜石」は、淡い褐色で竜山や伊保山の尾根上でよく見られました。赤っぽい色の「赤竜石」は、竜山山頂東側の登山コースで風化したものを見ることができました。
青竜石(横10.5cm)
石山橋付近の採石場で採集黄竜石(横11.5cm)
竜山の尾根で採集竜山石にこの3つの色がある理由については、加古川東高校地学部が日本地質学会2008秋田大会の「小さなEarth Scientistの集い」で優秀賞を受賞した研究があります。
これによると、もっとも変質の程度が低いのが「青竜石」、風化によって基質に微細な水酸化鉄が広がったのが「黄竜石」、岩石の固結末期に節理に沿って上昇したマグマ残液の熱水によって熱せられ白雲母や方解石ができてその周りに酸化鉄ができたのが「赤竜石」と説明されています。3、竜山石の利用
竜山石は、成層構造を有したり、岩片と基質から成るつくりをしていますが、硬度などの物理的な性質が均質で節理が少ないという性質をもっています。また、軟質なため採石や加工が容易です。このため、古くから石材として切り出されていました。
古墳時代には石棺として利用されました。古墳時代中期には、畿内の権力者のほとんどの石棺にこの竜山石が使われ、「大王の石」と称されました。この頃の石棺はほとんどが6枚の板石を組み合わせてつくられた「長持形石棺」です。
古墳時代後期になると、この石から「家形石棺」がつくられました。「家形石棺」は加古川流域を中心にたくさん見つかっています。この頃は、地方の豪族や有力者の墓に利用されたと考えられています。
鎌倉〜室町時代には、五輪塔や宝篋印塔など、江戸時代の初期には姫路城の石垣などにも利用されました。明治以降には、旧造幣局鋳造所(1870年)や住友銀行本店ビル(1922年)、京都ホテル旧館(1928年)など、近代建築物などの壁材として利用されました。
竜山石の採掘は今も続けられ、河川や公園などの石垣、モニュメントや花壇の縁取り石など、建築用や造園用に広く利用されています。
竜山石の使われているところを、いくつか巡ってみました。
播磨町の兵庫県立考古博物館には、竜山石でつくられた2つの石棺が復元されています。1つは、篠山市雲部車塚古墳(5世紀)の長持形石棺、もう1つは奈良県見瀬丸山古墳(6世紀後半)の家形石棺です。竜山石は大王の棺として瀬戸内海を渡りました。
曽根の松で有名な曽根天満宮。この境内の池に、竜山石で造られた古い石橋が架かっています。親柱には、「享保八年五月吉日」と彫られています。訪れた日は、擬宝珠付き透かし彫り唐草模様の高欄が、梅の花に映えていました。
高砂海浜公園にも、竜山石が利用されています。青竜石と黄竜石が入り混じった石畳を歩いて人工島に渡ると、青竜石で造られた大きなモニュメントが立っています。
大原美術館は、1930年、日本で最初の西洋近代美術館として倉敷市に誕生しました。本館は創立時の建物で、ギリシア神殿風の堂々とした外観です。この建物は、竜山石を小さく砕いたものをコンクリートに混ぜてつくられています。玄関の柱の基壇には、竜山石そのものが使われています。
約7000万年前の火山活動で生まれた竜山石。長い年月の間に上部が侵食されて、今の地表が表れました。そこに人が住み着くようになると、この石は様々に利用され、播磨発の石の文化を綿綿と築き上げてきたのです。
雲部車塚古墳(篠山市)の長持形石棺(5世紀)
復元したもの(兵庫県立考古博物館)曽根天満宮の石橋
1723(享保8)高砂海浜公園のモニュメント 大原美術館の礎石
1930(昭和5)
参考文献
1.尾崎正紀・原山智(2003)高砂地域の地質.地域地質研究報告.産総研地質調査総合センター.87p.
2.川勝和哉・藤本さやか・竹内時実・原由洋(2008)兵庫県南東部加古川市〜高砂市の形成史とそこに分布する高級石材「竜山石」の色相変化のメカニズムを解明.第66回形の科学シンポジウム理科教育高校生セッション(2008)要旨集.
■岩石地質■ 宝殿層 成層ハイアロクラスタイト
■ 場 所 ■ 高砂市阿弥陀町付近 25000図=「加古川」
■探訪日時■ 2009年1月25日