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市川中学校1年 総合的な学習「神戸で学ぶ“いのち”と“防災”」
「阪神・淡路大震災」を知ろう
兵庫県南部地震
1995年1月17日、午前5時46分。兵庫県淡路島の北部を震源に、地震が発生しました。震源の深さは16km、マグニチュード7.3。近くの活断層がずれることによっておきた都市直下型の地震でした。
この地震は、のちに「兵庫県南部地震」と名前がつけられました。これによっておきた災害を「阪神・淡路大震災」とよんでいます。
ドンという音とともに町をおそった、激しい縦ゆれと横ゆれ。寝込みをおそわれた多くの人は、逃げることも、体を守ることさえもできませんでした。ゆれは一部の地域では震度7を記録しました。
大きなビルが倒れたり、高速道路の橋脚が折れるなど、兵庫県南部地震は想像をこえる破壊力をもった地震でしたが、なかでも被害が多かったのは、古い木造住宅でした。
全半壊した住宅は約25万棟にものぼり、けがをした人は約4万4000人、命をおとした人は6400人をこえました。この90%ちかくが、家具や建物などによる圧死でした。
被害の状況
地震後に発生した火災も、被害をより大きくしました。全半焼した家は7500棟以上。けがをしたり亡くなった人のなかには、火災による被害も多かったのです。
また、道路や鉄道も寸断され、生活に必要な電気や水道などのライフラインもたいへんな被害を受けました。断水130万件、停電260万件、電話の不通30万回線。これらの数字は、その後の復興がどれだけ困難であったかを物語っています。(電気は比較的早く復旧しましたが、上下水道が完全復旧するまでには3か月以上かかりました)
多くの人々は、学校の体育館や公園など、少しでも安全と思える場所に非難しました。その数は、ピーク時には30万人以上にものぼりました。しかし、余震がつづくなか、いつまでつづくともしれない避難所での生活は、人びとの心や体にますます大きな不安を与えることになります。
人であふれかえった避難所は、となりとの仕切りもうすい板一枚でプライバシーもなく、真冬の寒さや地震のショックから、病気になる人もたくさん出ました。とくに、体力のないお年寄りや小さな子どもに影響がでました。なかには、親せきや知人をたよって疎開する人もいて、一時は1万2000人以上の学齢児童が日本各地に疎開したといわれています。
やがて国や県によって仮設住宅や復興住宅が建てられましたが、それらの住宅の場所や数、入居に制限があるなど、多くの問題がありました。
ボランティアの活躍
そんななか、被災地の人びとの心を何よりもホッとさせ、力づけたのが、全国各地から寄せられた救援物資や募金、はげましの手紙、そしてボランティアの力でした。
とくにボランティアは、地震直後の救援活動からその後の被災者の生活支援(炊き出しや水くみ、こわれた家の後かたづけの手伝い、仮設や復興住宅への引っ越しの手伝い、子どもたちといっしょに遊んだり、勉強を教えたりなど、あらゆる方面での活動)に大きな力を発揮しました。
地震のあった1995年の1年間だけでも、全国から138万人のボランティアが被災地に入ったともいわれています。また、海外の多くの国からの支援もあり、復興に影響を与えました。
指田和子・鈴木びんこ『あの日をわすれない はるかのひまわり(2005年 PHP研究所)』より
ワークシート「阪神・淡路大震災」
1、「阪神・淡路大震災」を引き起こした地震を何といいますか。
2、この地震は、いつ起こりました。
3、このような地震の種類を何といいますか。
4、地震のマグニチュードはいくらでしょう。
5、震度は最大でいくらでしたか。また、市川町の震度はいくらだったか知っていますか。
最大 市川町
6、この地震で命をおとした人は、何人をこえましたか。
7、命をおとした最大の原因は何ですか。
8、被災地の人びとを励まし、力づけたのはどんなことだったですか。