生野書院 朝来市 | ||||||||||||||||
生野書院は、銀山の町生野の中心地に、古い民家(大正期)を改修して平成4年(1992)に開設されました。展示室(生野史料館)には、銀山の歴史を伝える古文書や銀山で使われていた道具など、貴重な資料が展示されています。 館内はカメラ撮影が禁止されていますが、今回は特別に撮影を許可されました。また、HPへの掲載についても、許可を頂きました。
明治初年に初代鉱山長として生野に赴任し、生野銀山の新たな開発に力を注いだ朝倉盛明。その朝倉盛明の官邸の正門として建てられたものが、ここ生野書院の門として移設されています。
受付でいくつかの資料をもらい、展示室に入りました。一室だけの展示室の四面には、古い地図や絵、鉱山にまつわる文書や鉱山で使われた道具などがぐるりと展示されていました。 「但州生野銀山想繪図」は、江戸後期に書かれたものと推定され、浅田廉平の名が記されています。 2m×1.5m程度の大きな絵で、鉱脈が直線的に何本も引かれ、その周辺に無数とも思えるほど多くの坑口が描かれています。 生野鉱山の鉱脈は、4×6kmの範囲に及び、400もの坑口があったといわれています。その生野鉱山の規模の大きさがこの絵から読み取ることができます。鉱脈の主な方向は、北西ー南東であったことがこの絵からわかります。 「生野銀山製鉱所用大送水路図」は、明治の初めの生野鉱山ようすを伝えています。 明治政府は、生野銀山を官営として、フランスから技術者を招き鉱山の近代化を図りました。そのために、市川の上流にダムを築き、そこから長さ3500mに及ぶ送水路をつくって製鉱所の動力としました。この図には、そのときつくられた送水路と当時の製鉱所のようすが描かれています。 展示室の中央には、横に長い「明治初年の生野町絵図」が展示されていました。 明治4年の銀山焼打ち事件によって、それまでの製鉱所はほとんどが焼け落ちてしまいました。鉱山長朝倉盛明(工部省鉱山助)はフランス人たちの力を得ながら、心血を注いで鉱山の再建を図ったのです。 この図には、明治9年に完成した新しい生野鉱山工場が描かれています。立ち並ぶレンガ造りの工場は、当時の日本の五指に数えられるほどの規模を誇ったといいます。この図には、狭い谷間にぎっしりと並んだ家々、フランス人の居住した洋館、太盛や金香瀬の開発のようすも描かれ、生野銀山の繁栄ぶりがしのばれます。 「銀山絵巻」は、江戸時代のものが色彩も鮮やかに復元されています。 江戸時代には、灰吹法という方法で銀を精錬していました。これは、鉛を利用して銀を溶かし出し、そこから銀と鉛を分離する方法です。 この銀山絵巻には、採鉱や選鉱、吹屋での精錬のようすや鉱石の取り引きのようすなど、銀を取り出す工程とそこにはたらく人々のようすが描かれています。す。
「銀山旧記」は、元禄3年(1690)に生野代官所役人寺田十郎左衛門豊章によって記されたものです。(展示されているものは、後に写筆されたもの)。 これは、それまでの銀山の歴史を著した史料で、要約したものがパネルに記されていました。これには、天文11年(1542)2月に、城山の南表で銀石を初めて掘り出したとあります。(銀山の始まりについては、大同2年(807)に、生野から銀が発見されたという言い伝えもあります。) 山名祐豊が生野に平城を築いて生野の町並みができ、それから銀山の支配が織田信長、羽柴秀吉、徳川家康と次々と代わっていきました。生野銀山は、重要な経済基盤として常に時の権力者に掌握されてきたのです。 生野銀山は、火事や事故、あとから繁栄した多田銀山に坑夫を奪われたりして、一時さびれましたが、新坑が見つかって再び生気がよみがりました。「銀山旧記」には、このような生野銀山の盛衰が記されています。
展示の高い位置に、赤くて大きな幕が飾られています。これは、明治13年に製作された阿吽の亀の描かれた「見石飾幕」です。 年に一度の山神祭りに、その年に掘り出された極上の鉱石を山車に乗せ引き回しました。この山車を「御見石」といいましたが、このような豪勢な飾幕で飾りました。 道具では、江戸時代の秤(はかり)、銀秤、汰(ゆ)り椀などが展示されていました。汰り椀は、鉱石の中から金や銀を選び分けるのに使われたお椀です。 採鉱に使われたハンマーとタガネの移り変わりが説明されていました。江戸時代は、岩盤を表面から奥に向かって砕いていくハツリ工法がとられていました。岩にあてたタガネは、断面が正方形となっています。それが、明治になると火薬による採掘法に変わりました。タガネの断面は八角形となり、これをハンマーで打って火薬をつめる穴を開けました。 採鉱に火薬が使われたのは(発破法)、生野が国内で初めてだといいます。鉱夫たちは、ハンマーを切刃(せっとう)と呼びましたが、これはフランス語でハンマーをマセットということからきています。この切刃の語は、生野から全国の鉱山に伝わっていきました。 「御下賜金達書(ごかしきんたつしょ)」は、明治29年(1896)に皇室財産であった生野鉱山が民間の三菱合資会社に払い下げられた際に、生野町に与えられた恩師金の通達書です。御下賜金は69,000円で、現在の10億円に相当するといいます。生野の銀山町では、このうち5.000円を銀行預金し、その利息で年々植林を行いました。
館長さんに、生野鉱山で採れた鉱石を見せていただきました。 土間の置かれていた2つの大きな鉱石は奥銀谷小学校にあったものです。奥銀谷小学校は、2009年3月に閉校になりましたが、そのときここへ移されたということです。 表面が金色に光っている鉱石は黄銅鉱を主とするもので、少量の黄鉄鉱を含んでいます。 もう一つの黒い鉱石は、方鉛鉱と閃亜鉛鉱からなっていました。方鉛鉱は表面がややさびていますが、鉛色で金属光沢があり、さいころのように直角に割れた劈開が観察できます。閃亜鉛鉱は、黒色で板状に劈開が発達しています。 どちらもずっしりと重く、貫禄のある立派な鉱石でした。 また、受付の窓口には黄鉄鉱の結晶が表面にはりついてきらきら光る鉱石が置かれていました。これは、どこかの家にあったものを持ってきたそうです。このような石は、生野のどの家にも一つや二つあったそうです。 館長さんには、いろいろと展示資料の説明をしていただきました。また、写真撮影やHPへの掲載について便宜を図っていただきました.ここに、深く感謝いたします。
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