南紀熊野の橋杭岩  (和歌山県串本町)

 
南紀熊野の「橋杭岩」


1.沖に向かって一直線に立ち並ぶ岩塔

 南紀熊野の串本町に、橋杭(はしぐい)岩を訪ねました。
 橋杭岩の付け根に、「道の駅 くしもと橋杭岩」があります。ここから、間近に橋杭岩を見ることができます。
 全国的にも有名な景勝地だけあって、天気に恵まれたこの日は、多くの観光客でにぎわっていました。

 陸から沖に向かって大小の尖った岩塔が一直線に並んでいます。岩塔群の先の方は、途中で弁天島のうしろに隠されてしまいますが、全体では大小40ほどの岩塔が、紀伊大島に向かって約900mに渡り一直線に連なっています。
 岩塔の並んでいるようすが、橋脚(橋の杭)のように見えることから「橋杭岩」と名付けられました。

 陸から橋杭岩までは、波食台が続いています。波食台は波の侵食によってつくられた平らな地面です。訪れたときはちょうど干潮で、波食台の上を歩いて岩に近づくことができました。
 近くで見上げる岩塔は大きくそそり立っていて、迫力がありました。風のほとんどない穏やかな日でしたが、それでも波が岩にぶつかっては波しぶきを上げていました。
 
蛭子島(左)と平岩(右) (右端はハサミ岩)

 道の駅には、情報休憩棟が併設されていて、この2階テラスからも橋杭岩が一望できます。テラスの柱に、主な25の岩の名前が書かれたイラストが掲示されていました。
 陸に近い方から、元島、ゴロゴロ岩、黒岩・・・。目の前に見える岩とイラストに描かれた岩を、弁天島までひとつひとつ見比べました。

情報休憩棟に掲示されている橋杭岩の岩の名前

2.橋杭岩の成り立ち

 橋杭岩の手前に広がる波食台は、泥岩の地層でできています。橋杭岩は、この熊野層群の泥岩中に貫入した流紋岩の岩脈です。
 今から約1400万年前(中期中新世)、地層の割れ目に沿って上ってきたマグマが、岩脈として地中で固まりました。
 その後、大地が隆起し、周りの泥岩の地層が侵食さてなくなり、硬い岩脈が残りました。
 岩脈にも割れ目(節理)がいくつも入り、弱い部分が崩れ落ちて飛び飛びとなり、今のような姿になったのです。
 

橋杭岩と熊野層群の泥岩層
 
 情報休憩棟には、この成り立ちが4コマまんがで楽しく描かれています。また、ここには橋杭岩と周辺のようすが描かれた大きなイラスト「橋杭岩でいっぱい遊ぶ絵地図」が貼ってありました。
 この地図には、橋杭岩の自然や見所、岩に残る伝説が紹介されていて、もう一度岩に近づきたくなりました。

「橋杭岩の成り立ち」
道の駅に立つ南紀熊野ジオパークの説明板より


3.橋杭岩は流紋岩でできている

 天然記念物の橋杭岩は、ハンマーで叩くことはできません。海岸に、橋杭岩から崩れ落ちて小さくなった石が転がっているので、この石を観察しました。

 岩の表面は、風化によって黄褐色に変化しています。そこで新鮮な破断面をつくり、この岩石を観察しました。
 橋杭岩をつくっているこの岩石は流紋岩です。
 斑晶として、石英・カリ長石・斜長石がふくまれています。石英は、コロリと丸く、融食されているのがルーペでも観察できます。カリ長石は、ピンク色の長方形の結晶。斜長石は、無色〜白色の細長い結晶で劈開面が光ります。斑晶の大きさは、どれも最大で3mm程度です。また、有色鉱物は変質していて確認できませんでした。
 石基は、薄い緑灰色でルーペでは結晶を認めることはできません。

 橋杭岩の岩石は、「花崗斑岩」「石英斑岩」とされていることもありますが、このような観察から「流紋岩」とするのが良いと思います。
 国道沿いの露頭から採集した岩脈の薄片を作り、偏光顕微鏡で観察した藤原卓(2019)も、「斑晶は主に、融食の激しい石英、サニディン、斜長石からなり、石基は微細な鉱物とガラス質(凝灰質)で、斑岩というより“流紋岩”のように見えます。」と記載しています。

橋杭岩の流紋岩(標本横9cm)

 橋杭岩の周囲に分布している熊野層群の地層は、約1800万〜1500万年前に前弧海盆堆積体として堆積した地層です。
 1400万年頃になると、この地域ではカルデラができる大きな火山活動がありました。そのときできた岩石が、古座川の一枚岩や那智の滝などをつくっています。
 橋杭岩の岩脈も、このときの火山活動に関連して生まれたと考えられています。
 橋杭岩から車で国道を北へ上っていくと、橋杭岩より規模が小さいものの、同じように岩脈からできた岩の連なりが海に何本も見えました。

4.津波石

 橋杭岩の手前に広がる波食台の上には、いくつもの大小の岩が転がっています。その数は千を越え、重さが100トンを超えるものもあります。
 岩の大きさは、橋杭岩に近いほど大きく、離れるほど小さくなっていることがすぐにわかります。
 これらの岩は、津波によって海底から持ち上げられた岩、「津波石」と考えられています。

 これまでの研究で、直径1m以上の岩は、台風時の高潮ではほとんど移動しないことがわかっています。また、聞き取り調査などから1946年昭和南海地震の津波でも大きな変化は確認されていません(穴倉 2013)。
 それらのことから、ほとんどの岩は昭和の津波より大きな規模の津波によって運ばれたと考えられます。

橋杭岩と津波石

 津波石の上部には、ヤッコカンザシというゴカイの仲間の抜け殻がついているものがあります。ヤッコカンザシは潮間帯に住んでいる生物ですが、この抜け殻が岩の上についているということは、津波で岩が動いてひっくり返ったことを示しています。
 そこで、このヤッコカンザシの年代を14C法で調べてみると、1650年以降と1120〜1340年の2つの時期に集中していることがわかりました。前者は1707年の宝永地震の可能性が高く、後者は1196年永長、1199年康和、1361年正平などの地震が候補となります(穴倉ほか 2011)。
 このような研究からも、過去の巨大地震や巨大津波の履歴を調べることができるのです。

■ 参考・引用文献
 穴倉正展,2013,地形・地質記録から見た南海トラフの巨大地震・津波(南海地域の例),GSJ地質ニュース,Vol.2 No.7,201-204
 穴倉正展・前杢英明・越後智雄・行谷佑一・永井亜沙香,2011,潮岬周辺の津波石と隆起痕跡から推定される南海トラフの連動型地震履歴,日本地球惑星科学連合2011年大会講演要旨,SSS035-13
 藤原卓,2019,関西の地質関連の天然記念物を巡って その3,地学研究,65,212-219

 南紀熊野ジオパーク推進協議会,2018,南紀熊野ジオパーク 3つの大地と出会う,91p
 


■岩石地質■ 流紋岩岩脈 約1400万年前(新第三紀中新世) 熊野層群敷屋累層の泥岩中に貫入
■ 場 所 ■ 和歌山県串本町
■探訪日時■ 2020年10月15日