青柳隆志述(1999・4・12) |
「朗詠」とは、十世紀前半以降成立した、詩文の吟誦による歌謡の名*です。現在の「詩吟」の先祖にあたると言っていいでしょう。この言葉はもともと中国の詩文(特に『文選』)に見える語で、日本では菅原道真が初めて用いましたが、これが歌謡の名称となるに至るまでには、いくつかの段階がありました。
*=「和歌」の場合は、「朗詠」と言わずに「披講」または「吟詠」といいます。「和歌を朗詠する」(『広辞苑』第五版)という言い方は、江戸期以前には例がなく、現代風の誤った使い方です。
「朗詠」は「博士詩を講ずる時のせう(頌)のこゑといふより事をこれり」(文机談)といわれるように、詩を作る会の際、講師によって読み上げられた作品を人々が吟詠したのがはじまりとされています。特に、天皇の作品である御製は、必ず臣下が吟詠したので、古くはこれをさして「朗詠」と呼んでいました。
いっぽう、詩を吟ずることそのものは、詩の会に限らず、平安時代の初期から非常に盛んに行われていました。そうした吟詠は、まだ「朗詠」という名では呼ばれてはいませんでしたが、代わりに、「誦ず*」・「詠ず」などという言葉で記録されていました。
*=「誦」には、「ずす」「ずず」「ずうず」「ずんず」など、さまざまな読み方があります。
しかし、長和元年(1012)、藤原公任*が、『和漢朗詠集』を編んだことで、状況は一変しました。この書は、中国や日本の詩文(和歌も含まれます)のうち、吟誦するに値するものを抜粋した佳句選(アンソロジー)ですが、「朗詠」という言葉は、この書がひろく知られるようになるのにともない、詩文を吟ずることをさす言葉として完全に定着しました。もともと、この当時、「朗詠」という言葉は、漢文の日記類でしきりに用いられており、公任は、そうした同時代の流行語を、意識的に書名に取り入れたものと考えられます。
*=藤原公任(ふじわらのきんとう・966〜1041)
「朗詠」は、この当時から、宮廷貴族のあいだに大いに流行しました。『枕草子』に描かれた、藤原斉信*や藤原伊周**などの「朗詠」の名手たちの描写は、まことに見事なものです。また、『枕草子』には、多くの殿上人がそろって詩句を群詠する場面があり、すでに、「朗詠」に一定の曲がつけられていたことがわかります。『源氏物語』にも、「誦ず」・「うち誦ず」という語によって描かれる古詩の吟誦が数多く登場しています。
*=藤原斉信(ふじわらのただのぶ・967〜1035)**=藤原伊周(ふじわらのこれちか・974〜1010)
「朗詠」はまた、「宮廷歌謡」としても取り上げられました。それは当初、人が亡くなったあとの儀式や行事で、通常の音楽や歌謡の代わりとして、しめやかで重々しい雰囲気をもつ「朗詠」が用いられたことがきっかけでした。『源氏物語』にも、「ものの音もむせびぬべきここちしたまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ」(幻)という記述がありますが、『源氏物語』のなかの「朗詠」の多くが、悲しい心情や深刻な状況をあらわす、重大なものとして描かれているのは、作者紫式部が、「朗詠」の本質をよく理解していたことを示しています。
「朗詠」が、「宮廷歌謡」として確実に定着するのは、十一世紀の終わり頃、院政期に入ってからです。それまで、いくつかの行事で用いられていた「朗詠」は、次第に、特定の行事で固定的に用いられるようになります。正月の「臨時客」「殿上淵酔」や十一月の「五節淵酔」、あるいは「産養」「着袴」「読書始」などの臨時行事がそれにあたります。
このような行事に「朗詠」が取り入れられたのは、院政期の公卿、藤原宗忠*を中心とする「朗詠者」たちの実演による所が大きいと思われます。宗忠には、生涯三十度以上の「朗詠」の記録があり、かつ関白藤原忠実**とともに、「朗詠九十首」を選んでいるからです。また、平安末期の藤原師長***は、これをさらに「朗詠二百十首」にまで増やし、「朗詠」はこの時点で最盛期を迎えました。
*藤原宗忠(ふじわらのむねただ・『中右記』の筆者・1062〜1141)**藤原忠実(ふじわらのただざね・1078〜1162)***藤原師長(ふじわらのもろなが・1138〜1192)
宮廷の行事で使われる「朗詠」の曲は、その行事の季節や場面にふさわしいものが頻繁に使われました。それは、「嘉辰令月」「徳是北辰」「東岸西岸之柳」「新豊酒色」「隆周之昭王穆王暦数永」の五曲でした。
また、「朗詠」の曲をあつめた「譜本」*も数多く制作されました。宮廷貴族によってつくられたものもありますが、意外なことに、僧侶(とくに声明の僧)の間に伝承されたものも多く、「朗詠」が「仏教歌謡」にも接近していたことがわかります。
*@『朗詠要抄因空本』(1232年・41首※)・A『朗詠要抄円珠本』(1287年・93首※)・B『朗詠要集』(1292年・70首※)・C『常行堂声明譜巻末朗詠譜』(1349年・16首※)・D『朗詠九十首抄後崇光院本』(1371年・114首)・E『朗詠九十首抄 流布本』(1429年・126首)・F『陽明文庫朗詠譜』(南北朝以前、117首)・G『金沢文庫朗詠譜』(1400年以前か、五種32首※)。※は僧侶の間で伝承されたもの。
「朗詠」は、こうした「譜本」による伝承をささえとして、平安時代〜室町時代にかけて、公的行事・日常の場面を問わず、盛んに行われました。室町期の戦乱を経て、江戸初期には四曲(嘉辰・徳是・東岸・二星)にまで激減したこともありましたが、その後復元された曲も多く、現在、宮内庁式部職楽部は、次の十五曲を伝承しています。(全曲がCDとなって発売中です)
嘉辰・徳是・東岸・池冷・暁梁王・紅葉・春過(以上七曲、明治9年撰定)
二星・新豊・松根・九夏・一声・泰山・花上苑(以上七曲、明治21年撰定)
十方(伝承曲)以上の解説につきましては、小野恭靖氏編『歌謡文学を学ぶ人のために』(世界思想社)に執筆した拙論を下敷きにしております。ご参照ください。
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